日本の面影

Glimpses of Japan
失われる日本人の精神性に、将来を憂う  リンクフリー

真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ⑯
聖武天皇 奈良時代の佛教文物

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(2019.4.2)  (戻る)
新元号は令和、万葉集からの引用であるのだと昨日発表。奇しくも、この【真実の日本の歴史 ~ 戦前の日本史教科書準拠 参考書より】シリーズを更新しようと考えていた折、ちょうどこの『奈良時代の文物』を公開しようと校正を進めていたタイミングで…… 天平の先人たちの大きなエネルギー、その強い波動がきっと私のところにまで及んできていたのでしょう。しっかり受け止められる感受性あってよかった! ここをご覧の皆様もそんな私とつながれてよかったですね ^▽^) 続編はもういいかなと思っていたこのシリーズ、でも、続きを書こうと考えあらため、原稿はかなり前からザッと写してはあったものの、日本史上においても稀有、絢爛豪華な文化が育まれた「奈良時代の文物の章」は分量がすごく多いこともあって、校正が大変なため延ばし延ばしにしていたのですが……
先人の思いに通ずるためにも、今日の内容はしっかり勉強しておきましょう。
さて、先人から選ばれし預言者 ロデムですが(笑)、私は次の元号まで見られるでしょうか。子供に託すしかありませんね。

ところで皆さんは「鞠(まり)」と言って思い起こされるものって何ですか? 私にとっては大化の改新、中大兄皇子と藤原鎌足が懇意になったきっかけこそ蹴鞠。大化、天平の時代から日本に鞠は存在していました。初めて元号を定めし天智天皇。だから今回の記念ランキングバナーは鞠。中大兄皇子の蹴鞠の会が催されたページにも鞠のバナーを貼っておきましょう。

『最新 日本歴史解釈 』(1917年・妻木 忠太 著)より

【目次はコチラ】

聖武天皇
文武天皇の皇子 聖武天皇の御即位―天皇深く佛教を信じ給う―丈六の仏像と七重の層塔―諸國に僧尼(そうに)の両國分寺を設く―之に寺領を輿(与)う―奈良に東大寺の建立―金銅の大佛安置と大佛殿―三寶(宝)奴(さんぽうのやっこ)―戒(かい)を受けて沙彌勝満(シャミノシャウマン)と呼び給う。

光明(コウミョウ)皇后
天皇の皇后は藤原鎌足の孫女(不比等の女にて光明皇后)―古来の皇后は概ね皇族―鎌足父子 朝廷に大功を建つ―始めて藤原家より皇后出づ―皇后 篤く佛教を信じ給う―慈悲の御心 深し―施薬院(せやくゐん)・悲田院(ひでんゐん)―孤児・貧病者の救療(慈善事業)
佛教の興隆
聖徳太子の興隆以後 漸く弘まる―造佛と寫(写)経―六宗 行わる―東大寺・西大寺・薬師寺の諸大寺建立―上流間の帰依―藤原不比等また早く興福寺を立つ―不比等の子 武智麿(ムチマロ)も佛教を信ず―印度・支那より渡来の名僧―名僧の輩出―良弁(リョウベン)と行基(ギョウキ)―無道の僧侶―玄昉(ゲンボウ)―藤原廣嗣(ヒロツグ)の反―大野東人(オホノノアヅマント)之を平ぐ―多賀城―玄昉の貶斥(へんせき)―吉備眞備(キビノマキビ)の左遷。

美術工芸の進歩
美術・工藝の進歩―寺院の建築―佛像の彫刻及び鋳造―絵画・織物・刺繍・漆器・硝子器の製作―制作物の壮麗巧妙(天平時代)―正倉院と其の御物―奈良市内外の寺院の堂塔と其の存在の美術品―印刷術 起る―木版の印刷佛経。

文學の隆盛
遣唐使の往来繁く―留學性の入唐多く―漢學の進歩を促す―和漢混合文(古事記・風土記)―宣命文(せんみょうぶん)―詩文の功妙―粟田眞人(アワダノマヒト)―吉備眞備―阿倍仲麿(アベノナカマロ)―太安萬侶(オホノヤスマロ)―石上宅嗣(イソノカミノヤカツグ)―淡海三船(オフミノミフネ)等の輩出。持統天皇の頃 和歌流行す―柿本人麿(カキノモトノヒトマロ)の先駆―山部赤人(ヤマベノアカヒト)―山上憶良(ヤマノエノオクラ)―大伴家持(オホトモノヤカモチ)等の輩出―萬葉和歌集の撰。

風俗の華美
文物の進歩に伴いて風俗華美に趣く―世人 唐風を好む―左衽(さじん)の着物 右衽(うじん)となる―袖濶(ひろ)く裾長し―古風の板簷(いたぶき)及び草葺(くさぶき)も瓦屋に改め丹聖(たんあ)を塗る(五位以上の人及び富人)

〇國分寺
聖武天皇の天平13年3月、詔して諸國に国分僧寺と国分尼寺とを建てしめ給う。其の僧寺を金光明四天王護國寺と云い、其の尼寺を法華滅罪寺と云い、また単に前者を国分寺と云い、後者を法華寺と云う。此の国分寺は、天下一切の禍を除かん為に建てしめ給いしものにして、当時地方政治の中心なる國府附近に置かしめられ、國毎に正税を割きて之に入れ、其の利息を以て造寺の用に充てしめらる。されど國司等多く怠慢にして命を奏ぜざりしかば、早くより衰亡に属し、其の一度亡びたるものは、殆ど再建せらるることなし、現今の村名及び字名に、なほ國分若くは国分寺の称あるは、蓋(けだ)し昔時 国分寺の在りし縁由の地なるもの多し。
〇東大寺
大和奈良市に在り。所謂 奈良七代寺の一にして、今は華厳宗の総本山たり。本尊を金銅盧舎那(るしゃな)仏像とし、世に之を奈良大佛と云う。聖武天皇 佛法興隆の為め、天平13年 此の大佛の造立を企て給い、やがて之が工事起りて天平勝寶(てんぴょうしょうほう)元年に成る。大佛殿は天平19年に工を起し、天平勝寶4年に成る。治承(じしょう)4年 兵火にかゝりしが、僧 重源 起巧して、建久6年に成る。永禄10年 再び兵火にかかりしが、公慶上人また工を起して寶永5年に成る。現存のもの即ち是なり。其の銅 燈龍・三月堂・二月堂・開山堂・鐘楼・浄土堂・大湯屋・南大門・戒壇院等は、今或は国宝たり、或は特別保護建築物たり。
〇三宝奴
佛・法・僧の三を三寶(宝)と云う。佛寶は一切の佛陀(ぶつだ)にして法寶は佛の設ける教法また僧寶は其の教法に従って修行するものを云うなり。
〇光明皇后
藤原不比等の二女にして、聖武天皇 皇太子の時の妃となり給う。天皇即位に及びて従三位を授けられて夫人となり、高謙天皇を生み給う。尋で正三位に叙し、天平元年皇后となり給い、孝謙天皇 受禅の後 皇太后となり給う。かくて天平宝字4年6月崩じ給う。御年60 皇后 幼にして聰彗(そうけい・才知にすぐれること)、體貌(たいぼう・姿と顔だち。容貌。)殊麗にして光耀あるが如きを以て、光明皇后と申すと云う。皇后 天資慈仁にして深く佛を信じ給い、天皇に勸(勧)めて東大寺を建て、諸国に国分寺を置き、また悲田院・施薬院を設けて、天下飢病のものを療養せしめ給う。
〇施薬院と悲田院
施薬院は施療所にして、諸國の薬草を買取して窮民の病を治療する所なり。光明皇后及び藤原不比等の仁恵に起り、天平2年4月始めて設けらる。初め大和奈良京に在りしが、後 平安京に移さる。長官を別当と云い、藤原氏の人を之に任じ、其の下に判官・主典・醫(医)師等を置く。悲田院は孤兒病者の救養所にして、施薬院の別所として同時の創立なり。
〇六宗と八宗
六宗は華厳(けごん、聖武天皇 天平8年 唐僧 道璿(ドウセン)之を伝う)律(りつ、孝謙天皇 天平勝寶5年 唐僧 鑑眞 之を伝う)法相(ほっそう、孝徳天皇 白雉4年 元興寺の僧 道昭(ドウショウ)入唐して之を伝う)三論(さんろん、推古天皇33年 高麗僧 慧灌・エカン 来朝して之を伝う)成實(ジョウジツ、推古天皇の朝 三論宗と提携して伝わる 伝者未詳)倶舎(ぐしゃ、斉明天皇の朝 僧 智通・智達 二人入唐して之を伝う。或は桓武天皇の朝 僧 明全・ミョウゼン 之を始むと云う)にして之を南京六宗とも云う。之に天台(てんだい、桓武天皇 延暦24年 僧 最澄 帰朝して之を伝う)眞言(しんごん、平城(へいぜい)天皇 大同元年 僧 空海 帰朝して之を伝う)二宗(北京二宗)を併せて八宗と云う。
〇興福寺
山科(やましな)寺とも厩坂(うまやさか)寺とも云い、大和 奈良市に在りて法相宗の大本山たり。初め藤原鎌足、斉明天皇の御代に造立して釈迦佛を安置せんとし成らずして薨ず。天智天皇の御代、夫人 鏡女王寺を起して佛像を安置し、山科寺と云う。天武天皇の御代、大和飛鳥の厩坂に移して厩坂寺と云いしが、元明(げんめい)天皇の和銅3年、更に今の地に移して興福寺と改称す。藤原氏の氏寺として世々の崇敬厚く、境内の堂塔 頗(すこぶ)る壮麗なりしが、元慶(がんぎょう)2年以後、しばしば火災にかゝり、殊に藤原氏 昔日の勢力なくして大に衰え、徳川幕府の時は幕府の寺碌をうけて僅に之を維持せしのみ、現存のものは、北円堂、南円堂・東金堂・三重塔・五重塔などにして、是れ等 大概 特別保護建造物となり、其の堂塔に在る佛像は国宝のもの多し。
〇藤原武智麿
不比等の長子なり。和銅・霊亀年間 従四位上 近江守たりしが、養老年中累進して従三位中納言となり、天平元年 大納言に転じて大宰師を兼ね。6年従二位右大臣となる。9年 痘瘡を病むや、朝廷 詔を下して天下に大赦し、正一位左大臣に任じ給う。即日 薨ず。年58。武智麿の第(屋敷)は兄 房前の南隣に在りて南家と称し、房前を北家と称し、弟 宇合(ウマカイ)式部卿に任ぜしを以て式家と称し、また其の弟 麿は左右京大夫となりしを以て、京家と称す。
〇僧 良弁
近江志賀軍の人にして、華厳(けごん)宗の開祖なり。5歳の時に學に志し、長ずるに及びて僧 義淵(ギエン)に法相の宗義をうけ、後 慈訓(ジクン)を師として華厳の奥旨を授かる。既にして東山に小堂を構え、此に退隠して日夜修行す。聖武天皇 其の徳風を聞召し、勅して羂索(けんさく)院を賜わる。即ち名を改めて金鐘寺と称す。後、華厳 弘通の道場となり、天皇 良弁の勧化によりて此に東大寺を建て給う、良弁 始めて東大寺の別当となりて本務を司り、官僧 都より進みて僧正となる。寶亀4年 85歳にて寂す。
〇僧 行基
和泉の人にして、薬師寺 菅原寺等に住す。其の佛教を説くや、道俗(どうぞく・僧侶と俗人)之に追随するもの多く、時人 之を菩薩と呼ぶ。其の諸國を巡行するに当り、所々に寺を建て、過ぐる所 橋を架し道を修め、地溝を作り、堤防を築き、航路を開くること多し。就中 西國航行者の便を図り、播磨の室津より摂津の淀川尻迄の行程を定めしか如きは、著名なるものなり。天平17年 始めて大僧正となり、21年 天皇に菩薩の戒を授け奉る。此の年(天平感寶・てんぴょうかんぽう元年)82歳にて寂す。
〇本地垂跡
奈良の朝の頃より僧侶が神佛調和を図るが為めに。佛は本地にして權(権)に跡を垂れて神に顕(あらわ)れしなりと説くに在り。初め僧 良弁は巧に神佛の混合を説きしが、行基また夢に託して、天照大神は盧遮那佛(るしゃなぶつ)の権化(ごんげ)なりとの説を立つ。是れ本地垂跡説の権輿(けんよ・はじめ)にして、後 最澄・空海等 専ら此の説を唱えたり。
〇藤原廣嗣の反
廣嗣は宇合の長子なり。典籍に博覧にして、仏教に兼通す。また武芸に巧にして兵法を習う。天平年中 従五位下 大和守となり、太宰少弐に遷る。時に吉備眞備(キビノマキビ)・僧 玄昉(ゲンボウ)大に信任せられ、勢力 藤原氏を凌がんとす。廣嗣 此の二人に嫌焉(けんゑん)たらず、天平12年 上表して時政の得失を論じ眞備・玄昉を除かんことを請いしが省られず。九月 廣嗣 遂に兵を挙げて反し、兵を発して上京し、以て君側を掃除せんとす。朝廷乃ち大野東人を将として之を討たしめ給う。東人 九州に至りて廣嗣と戦い、11月 之を斬る其の輿黨(与党・なかま)もまた平ぐ。
〇大野東人
果安の子なり。和銅年中 新羅の使の来朝するや、東人 騎兵を率いて之を迎う。神亀の初年 陸奥の蝦夷の反するに及び、藤原宇合に従いて之を討ち、且つ建議して多賀城を築きて蝦夷の防遏(ぼうあつ)に備う。功を以て従四位下 陸奥鎭守府 将軍兼按察使(あぜち)となる。天平年中、在鎭の兵の功を錄して冠位を授け、以て後 人を勸めんことを奏請す。尋(つい)で藤原麻呂に従い諸國の兵を率ゐて蝦夷を伐ち、之を降しぬ。蓋し東人の計多きに居る。是に於て麻呂 奏して東人に多賀城に鎭せしめ、且つ大和守を兼ねしむ。11年累進して参議となる。尋で太宰少弐 藤原廣嗣の反するや、大将軍となって之を平げ、13年功を以て従三位に叙せられ、翌年遂に薨ず。
〇多賀城
旧址は陸前宮城郡多賀村大字市川(塩釜町西南一里)に在り。是れ鎭守府及び陸奥國府の在りし所なり。多賀城碑(天平寶宇6年鎭守府将軍 藤原朝獦(アサカリ)等の造る所)及び職原抄(北畠親房の著)には、神亀元年 大野東人の築きし所となす。されど続日本紀(コチラ参照)の養老6年に既に陸奥鎭所のこと見ゆ。此の鎭所は即ち鎭守府の城営なれば、神亀元年以前に既に築城せるものなりとの説あり。
〇吉備眞備
其の先 吉備津彦命(コチラ参照)より出づ。眞備、霊亀2年遣唐留学生となり、養老元年 唐に赴き、在唐19年、經史を研究し衆芸を修習し、当時 学生の名を唐に著わせしもの、眞備と安倍仲麿との二人のみ。天平7年帰朝して唐禮(礼)・暦書・楽書等を上る。是より大學助・中宮亮(すけ)に任じ、孝謙天皇の東宮に居給うに当り、學士となりて礼記・漢書を授け奉り、右京大夫・肥前守等に歴任し、天平勝寶4年 遣唐副使となりて再び唐に赴く。帰るに及びて正四位下 太宰大弐となり、建議して筑前怡土(いと)城(筑前糸賀郡怡土村)を築き、其の事に専当す。恵美仲麿(藤原仲麻呂)の反に及び、入りて軍事に参し、累進して従三位参議に任じ、神護2年 中納言・大納言を経て、従二位右大臣となる。かくて称徳天皇 崩じ給い、藤原永手(ナガテ)・藤原百川(モモカワ)等 相謀りて、光仁天皇を立て奉るに及び眞備 致仕を請い、寶亀6年82歳にて薨ず。
〇正倉院
正倉は諸倉中の重なるものにて、貴重品を納むる所を云い、院はなお家屋の意なり。故に正倉院は、大蔵省を始め諸國・諸寺等に在りしなり、而して東大寺の正倉院は、奈良東大寺大仏殿の北に在りて、間口十八間八寸四分、奥行五間一尺二寸、高五問、床下九尺、一棟三口の校倉(あせくら)なり。之を三ッ倉とよぶ。三陵(さんりょう)の木材にて井桁の如くに組みたて、三口あるを以てなり。其の起原未詳なるも、勝寶8年以前の建築にかゝるものゝ如し。此の正倉院には、聖武天皇の御遺物を始め貴重の品を納めたれば、朝廷厚く保護し給い、其の開閉は勅使を遣わし勅封を以てし給い、寺家をして濫(みだり)に開閉することなからしめらる。よりて勅封蔵とも云う。維新後、内務省に之を管せしが、明治17年宮内省の書簡に属せり。
〇木版の印刷の始
木版の印刷は、我が國にも早くよりありしが、現存のものは、孝謙天皇の神護景雲4年(寶亀元年)に成りしものを最古とす。此は天皇弘願を発し一百萬基の小木塔を作らしめ給い、其の中に納むべき四種の陀羅尼(経文)を印刷せしめ、神護景雲4年に十大寺(大安・元興・弘興・薬師・四天王・興福・法隆・崇福・東大・西大の十大寺を云う)に分置せしめ給いしものなり。よりてまた之を木版の印刷の始ともなす。
〇宣命文
宣命とは天皇の命(みこと)をうけて、之を人民に宣するの義にして、特に漢文体のものを詔勅と云い、國文体のものを宣命と称することゝなれり。其の書体は古事記・萬葉集の如く、漢字の音訓を並用せるも、専ら其の訓を用ゐ語尾・助辞等に音を假(仮)り用ゐて、之を細書す。之を宣命書と云う。宣命は立后・立太子・大臣の任免・神事・大赦・改元等の時に用ゐられたり。
〇粟田眞人
先は天足彦國押人命(アメタラシヒコクニオシヒトノミコト・孝昭天皇の皇子)に出づ。眞人 學を好みて文を能くし、進止また容あり。持統天皇の御代 累進して筑紫太宰となる。文武天皇の御代に、大寶律令の撰定にあづかり、大寶元年 遣唐執節使となる。其の筑紫に至るや、偶 風浪 悪しくして発すること能わず、翌年 再び唐に赴く。其の長安(支那の都)に至りて則天武后に見ゆるや、唐の廷臣 皆 眞人の温雅を称す。慶雲元年 帰朝して大和の田二十町穀一千石を賜わり、翌年 従三位 中納言となり、和銅の初年 正三位 太宰師となりて養老3年に薨ず。
〇阿倍仲麿
中務大輔 舩守の子なり。性 聡敏にして読書を好む。霊亀2年16歳にして遣唐留学生となる。其の赴きて学ぶや、姓名を朝衡(チョウコウ)と改めて唐廷へ仕え、累進して秘書監となる。勝寶年間、遣唐大使 藤原清河に従いて帰朝せんとす。海上 風に遭いて安南に漂い、また唐に至る。唐廷 更に光録大夫兼御史 中丞北海郡開國公とし、食邑三千戸を給するに至る。寶亀元年 遂に唐に卒す、年70。仲麿 唐に在る50餘年、王維・李白等の名士に交り、身 栄貴と雖(いえど)も常に帰を思うて巳まず。嘗(かつ)て月を望み和歌を詠じて曰く、あまの原 ふりさけ見れば かすがなる みかさの山に出でし月かも。と。承和(じょうわ)3年 朝廷 遣唐使に命じて、正二位を贈らせ給う。
〇石上宅嗣(イソノカミノヤガツグ)
左大臣 麿の孫なり。性 朗悟にして姿儀あり、博(ひろ)く經史に渉り文を能くしまた書に巧みなり。称徳天皇の御代 累進して参議より縦三位兼式部卿となる。寶亀の初年 大宰師となりしが、復入りて式部卿に還り中納言に任じ、11年大納言に進む。天應元年53歳にして薨ず。宅嗣 淡海三船(オウミノミフネ)と共に能文を以て併せ称せられ、其の詩賦数十首世に伝わる。嘗て宅を捨てて寺とし、其の寺内に一院を建てて儒書を蔵め、芸亭と名づけて読書のものに便にす。
〇淡海三船
葛野王(カドノオウ・弘文天皇の皇子)の孫なり。初め諸王たりしが、勝寶3年 姓を淡海眞人と賜わる。寶字年中、参河・美作・近江等の守介を経て中務大輔となり、神護2年 功田 二十町を賜わる。尋(つい)で寶亀年中、刑部大輔より大判事をへて大学頭兼文章博士となり、延暦の初 刑部卿に進み、同4年64歳にて卒す。三船 性 聡敏にして、群書に渉りよく文を属す。嘗て敕(ちょく)を奉じて神武天皇以来の諡號(しごう)を奉撰せしと云う。
〇柿本人麿
先は天足彦國押人命(孝昭天皇の皇子)に出づ。敏達天皇の御代に、其の家門に柿樹ありしにより此の氏名あり、起元1320年の頃に生れ、元明天皇の和銅3年頃に没せしものゝ如し。叙位・任官は其の伝わるものなくして未だ詳ならず、和歌に巧にして世に歌聖と称せらる。其の諸国を歴遊するや、過ぐる所 詠歌せざるなし。其の作 多く萬葉和歌集に見ゆ。
〇山部赤人
伊豫の来目部小楯(クメベノヲタテ)の後なり。紀元1350年の頃に生れて、天平8年の頃に没せしものゝ如し。官位未だ詳ならず、和歌を以て聞え、人麿と名を斎(ひと)しくし、山柿と称せらる、論者曰く、人麿は赤人の上に立ち難く、赤人人麿の下に立ち難しと、後世 称して和歌の仙と称す。其の詠歌多く萬葉和歌集に見ゆ。
〇大伴家持
大納言 旅人(タビト・コチラ参照)の子なり。寶亀11年 累進して参議兼右大辨(弁)となる。天應元年 東宮大夫となり従三位 左大辨となりしが、延暦元年 事を以て官を奪わる。既にして参議東宮大夫に復し、陸奥按察使鎮守府将軍を兼ね、翌2年中納言に任ず。3年持節征東将軍となりしが、翌年 薨じぬ。家持 和歌をよくして萬葉和歌集二十巻を撰す。
〇山上憶良
先は天足彦國押人命(孝昭天皇の皇子)に出づ。大寶の初年 遣唐少錄となりて遣唐使 粟田眞人に従い、霊亀年中以後、伯耆(ほうき)守 東宮侍読を経て聖武天皇の御代に筑前守となる。憶良 文をよくし和歌に巧みなり。其の詠歌 多く萬葉和歌集に見ゆ。憶良は生年を人麿と同じくし、死時は赤人に近し(天平5年74歳にて卒す)。
〇萬葉和歌集
主として舒明天皇より淳仁天皇まで凡そ130餘年間の和歌を集む。上は天皇・皇后・皇子より、下は群臣・百官・僧侶・田夫・野人に至る迄 幾百千人の多きに及び、其の数4500餘首に達して之を二十巻に編す。(仁徳天皇 雄略天皇の御代のもの2、3首を収む)此の編者につきて諸説あり、或は橘諸兄(モロエ)となせるもあれど、家持の歌集にして勅撰ならぬこと確なりとす。集中の著名なる作者は、柿本人麿・山部赤人・山上憶良・大伴家持・大伴旅人・橘諸兄を始め、志賀皇子・湯原王・額田女王等あり。其の他 雄略・舒明・孝徳・天智・天武・持統・元明・元正・聖武 諸天皇の御製もありて、後世 和歌を言うもの、取って以て模範となす。
〇奈良時代の文學
推古天皇の時 隋に使を遣わされしより、直接に支那の文明を我が國に伝うるに至りしが、舒明天皇以来 支那に派せられし遣唐使によりますます彼の文物を輸入したり。是に於て漢文學 大に発達し、學生は大學・国學等にて養成せられ、是れ等の結果として、我が國に於て始めて國文・漢文(推古天皇の朝に天皇記・國記等の編纂ありしも蘇我氏の滅亡と共に焼失して伝わらず)の書籍出現し、學者また輩出せり。其の書籍中 國文のものには、萬葉和歌集・古事記(コチラ参照)・風土記・宣命文の類ありて、漢文のものには日本書紀(コチラ参照)・懐風藻・詔書・勅書の類あり。而して學者には、吉備眞備・阿倍仲麿の如く才學 最高きものあり。柿本人麿・山部赤人・山上憶良・大伴旅人の如く和歌に妙を得たるものあり。此の外 当時の歌を輯(あつ)めて懐風藻と題せし淡海三船・萬葉集を修めし大伴家持もまた著名なり。
〇奈良朝の音楽
三韓 我に服属せしより彼の學問・技藝伝来し、従いて楽人もまた渡来して推古天皇の時に百済の樂人 味麻之(ミマシ)我に帰化せり。其の後 唐との交通 漸く盛となるに及びて遣唐使も次第に派せられしかば、彼の國 当時の楽をも此の方に伝えたり。天智天皇の時より大寶年中に至りて令條の定るや、治部省の被管に雅楽寮を置き、其の職員に寮・頭以下の唐楽師・高麗・百済・新羅の各楽師等(以上の職員中 楽師・楽生は支那三韓の正楽・俗楽を教習して同じく公宴の用に充つる也)を設け、内外の楽を此の寮に掌(つかさど)る所となる。是より我が國の古風を大歌・立歌ととなへて厳しく朝會(会)に用ゐ久米舞・東舞等は大嘗會 若は大社の神事に行わせられ、唐及び三韓の楽は、仏會 若は内宴に用ゐ給うに至る。聖武天皇の時、天竺の僧 婆羅門(バラモン)渡来して佛法を弘むと共に、また彼土の楽をも伝う。天皇篤く佛教を信じ給い、東大寺 盧遮那佛の開眼式の大會を始として、斎會(さいえ)に唐土・三韓の楽を用ゐ給い、臣民もまた佛教を崇め心を之によするもの多くして上下 此の楽を弄ぶに至りたり。
〇奈良朝時代の學問・技藝の発達
奈良時代には奈良に大學あり、地方には國學ありて學問 大に進み 學者輩出して種々の書籍 著わる。中にも吉備眞備・阿倍仲麿・石上宅嗣・淡海三船等の學者 相踵(あいつ)いで出で、日本書紀・古事記・風土記・懐風藻・萬葉集などの書籍著述せられ、漸く學問の進歩と共に、醫(医)師・針師・按摩師・呪禁師の術 発達し、佛法の隆興に伴いて寺院・佛像の造作 盛となり、建築・土木の術 大に進歩したり。其の遺物は今尚 存し、1200年前の発達を見るを得べきなり。(尚 奈良朝の學問発達 及び音楽をも参照すべし)
〇奈良時代に於ける皇位継承の事變(変)
奈良時代に於ける皇位継承の事変とも云うべきは、聖武天皇の崩後 淳仁(ジュンニン)天皇の即位に至るまでの皇嗣の議なりとす。初め聖武天皇の崩じ給うや、遺詔して天武天皇の皇子 新田部王(ニイタベオウ)の子 道祖王(フナドオウ)を皇太子とし給う。然るに王 諒闇(りょうあん・天子がその父母の喪に服する期間)にありて素行修まらず、よりて天平寶宇 元年3月 之を廃し、更に群臣をして皇嗣を議せしめ給う。藤原豊成・同 永手等は道祖王の兄 鹽焼王(シオヤキオウ)を立てんとし、文屋珍努(フンヤノチヌ)・大伴古麿等は天武天皇の皇子 舎人親王の子 池田王を立てんとす。時に孝謙天皇の殊遇(しゅぐう・他より特別によい待遇)を得て勢力ある藤原仲麿(豊成の弟)あり、仲麿 之を叡慮に問いて、池田王の兄 大炊王(オオイオウ)を皇太子となすの勅命あるに至る。大炊王の妃は仲麿の亡男 眞従(マヨリ)の寡婦 粟田諸姉(アワタノモロエ)にして、仲麿の勤むる所なり。よりて此の勅命あるは、蓋(けだ)し仲麿の攻略に出でたるなり。尋(つい)で仲麿 無道にも漸く皇族を除かんとして流言を放ち、橘諸兄また其の禍にかゝらんとす。諸兄の子 奈良麿は廃太子 道祖王及び鹽焼王・大伴古麿等と謀り、皇太子と仲麿とを除きて黄文王を立てんとす。黄文王は、天武天皇の皇子 高市皇子の子にして山背王の兄なり。時に山背王 事によりて黄文王を怨むる所ありしかば、奈良麿等の謀を仲麿に密告す。是に於て謀成らずして道祖王・黄文王等多く杖死し、その他皆罪せらる。是より仲麿威権ますます熾(さかん)にして、孝謙天皇 御位を大炊王に禅(ゆず)り給う。淳仁天皇 是なり。後 仲麿 叛を謀りて誅せられ、淳仁天皇また淡路に還され給う。時に天平寶宇8年10月なり。
〇奈良 平安 両時代と江戸幕府時代との概況及び相違の点
既に奈良時代の文学の條に述べたる如く、奈良時代には漢学漸く盛になりて、吉備眞備・阿倍仲麿・石上宅嗣・淡海三船等の如き学者あらわれ、日本書紀・懐風藻等 漢文の書 編纂せられ、詔書・勅書の数また漢文なりき。平安時代に及び、其の初期は漢学 尚 盛にして、僧 空海・小野篁(オノノタカムラ)・都良香(ミヤコノヨシカ)・菅原道眞・三善清行(ミヨシノキヨユキ)・紀長谷雄(キノハセオ)等の學者輩出して其の名高く、凌雲集・文華秀麗集・扶桑集・本朝文粋(ほんちょうもんずい)・本朝麗藻・都氏文集・菅原文草等の詩文集もまた数多著われたり。漢文の國史には続日本紀・日本後紀・続日本後紀・文徳寶録・三代寶録 相続きて著われ、古語拾遺・令義解(りょうのぎげ)・三代格式等出でしが皆 漢文なり。されど國文は、此の時代に殊に隆盛にして、漢文やがて衰え、其の末期 武家の勢力 盛となりては、甚だ不振の状態となりたり。徳川家康の出づるや、学問の必要を感じて之を奨励し、夙(つと)に藤原悍窩(セイカ)・林道春を用い、大に心を文教に留め、之が興隆を図りき。是に於て學問 蔚然(うつぜん)として勃興し、学者輩出せり。而して林家は程朱の派(朱子学)を以て官學とし、すべての儒者は此の説を以て講ぜんとす。是に於て其の説を非として復古派は伊藤仁斎 其の子 東涯にて主唱せられ、古文辭學派には荻生徂徠ありて、其の門下に太宰春台・服部南廓・山縣周南あり。王陽明派には中江藤樹・熊澤蕃山あり。折衷派に井上蘭台・片山兼山あり。局外中立の地位に在る学者には木下順庵の門下なる新井白石・室鳩巢(ムロキュウソウ)・雨森芳洲等あり。また徳川光圀の學問奨励によりて、其の藩学 所謂 水戸學には、朱之瑜(しゅしゆ)・安積澹泊(アサカタンパク)・栗山潜鋒(クリヤマセンポウ)ありて諸派 各起るに至る。概して江戸時代は、実に儒学隆盛の時代にして、漢文學は貴族の手を離れて平民的となり、藩學の主要なる學問となりしなり。尚 奈良・平安 両時代の漢文は支那より輸入せられしものを習得するに過ぎずして、貴族社会に重に行われて詩文・詞華を主とせしも、徳川時代には研究的となりて、己に貴族の手を離れて平民一般に普及し、恰も実用的に力を注ぐに至れり。
〇天平時代
天平は聖武天皇の時の年号にして、神亀6年8月 改元せらる。かくて20年をへて孝謙天皇の時に、天平感寶と改元あるに至る。此の間に於て、佛教の盛なるにつれて美術・工藝 著しく進歩し、寺院の建築・佛像の彫刻・鋳造を始め、絵画・織物・刺繍・漆器等、皆 巧妙美麗の域に達せり。よりて美術史上よりこの時代を天平時代と云うなり。

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