<跡地が地名として残る>
坂本龍馬は安政2年(1855)11月6日から7日にかけて、砲術の師・徳弘孝蔵に就いて仁井田浜で砲術の訓練をしていた(徳弘家資料による)。その仁井田浜にあった仁井田砲台は、戦時中、高知海軍第二飛行場の造成時、取り壊されたことは以前、述べた。
しかしその跡地が「台場」という地名として残っていることが分かった。その具体的な場所を探すのは少々手こずったが、平成初期にその跡地を撮った写真が掲載された文献を発見し、電信柱の位置や背後に写る大平山及び周囲のビニールハウスの角度等から、そこは現在の「きてみいや農場」周辺であることが分かった。
砲台跡の規模は東西約30m、南北約10m、高さ3m弱で、東端の内側に弾薬庫があった。飛行場ができる前は、上に6~7本ほど「台場の松」と呼ばれる松の大木があった。最大の松は胸高周囲5.1m、根周りは12.6mにも及ぶ巨大なものだった。
ここを探訪する際の駐車場所は、高知新港緑地駐車場や三里中学校向かいのグランドの駐車場等が比較的近い。前者の場合は、麒麟像の北側から新港の敷地沿いの道路に出て、西進する。そして最初のT字路を北に折れ、県道を横断する。
ビニールハウス群の十字路に到ると東に折れる。徒歩1分ほどで右手にきてみいや農場が現れるが、その前の道路も砲台跡地に含まれる。
グランドから向かう場合は、西進し、漁協組合三里支所を過ぎて最初の十字路を南に折れる。ビニールハウス群内の道路に突き当たると西に折れる。すぐ農場が左手に現れる。
そこから比較的近い場所に、先祖が才谷屋の仕事を請け負ったこともある小説家・田中貢太郎邸跡もある。
以前、龍馬は種崎砲台でも訓練をしていた旨、解説し、その跡地の写真も掲載したが、台場の土塁跡の一部が残っていることも分かった。その跡地は、長宗我部関連史跡と共に機会があれば紹介したい。
PS:当方の企画による龍馬の生まれたまち記念館でのコーナー展「四国に残る龍馬の伝承と無名史跡」は今月19日まで。まだ来館してない方はお急ぎを。
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