コーヒーと女 連載   ローズマリーの詩   25 
聖母子像に秘められた想い
破産して家の離れに間借りするおじと、出戻りの私。それぞれの愛の物語。

きょうのこと、おじさんに話すの?
帰ろうとする私に、千里さんが
訊いてきた。私は迷っていた。
ほんとうのことを言ってしまうと、
おじの心は傷つくかもしれない。
千里さんの部屋に置かれた
聖母子像が教えてくれた——。



 ここまでのあらすじ  会社を倒産させ、破産したおじがわが家の離れに住むようになって1年になる。私は、進めていた結婚話が破談になって、家に出戻って来た。おじも、私も、母にとっては「厄介者」だった。そのおじが住む離れから、時折、ギターで弾き語りするおじの歌が聞こえてくる。そのもの悲しげなメロディが、なぜか、心に響く。私は、その歌の内容を知りたくなった。その曲は『スカボロー・フェア』という曲。おじはもう40年、その歌を歌い続けているという。私はその理由を知りたくなったが、おじは、笑ってごまかすばかりだった。そのおじが「紗世ちゃん、ほんとは、もっと好きな人がいたんじゃないの?」と言う。よみがえった名前があった。鳴尾聡史。大学のサークルの先輩で、いまは、アフリカでポランティア活動に従事している。その鳴尾に「一緒にアフリカに行かないか?」誘われたことがあったが、決断がつかなかった。日本に残って就職した私は、職場で出会った萩原一郎に「ふつうに幸せになりなよ」と言われて、心が揺らぎ、一度は結婚を決断する。しかし、萩原は街でホームレスを見かけると舌打ちするような男だった。「結婚するとは家に入ることだ」と言われて、「この人、違う」と思った私は、結婚をキャンセルすることを決めた。そんなある日、おじに来客があった。尾崎と名乗る初老の客。ふたりの会話の中に「真坂千里」という名前が出てきた。その千里がハーブ・パンの店をやっていると言う。彼女は、かつて、おじが愛した女だった。しかし、ふたりは別れた。青い理想を語るおじは、「ふつうの幸せ」を求める彼女を理解できなかったのだ。私は内緒でその店をのぞいてみたくなった。「千の丘」という名のハーブ・パンの店。その店名は、「七つの水仙」という曲の歌詞から取ったという。そして、その曲を彼女に教えたのは、かつて、彼女が愛した男だった。「この前のパンがおいしかったから」と、再び店を訪ねた私に、千里はガーリックトーストをブルスケッタにして食べさせてくれた。次の日曜日、私は彼女に教わったブルスケッタを作っておじに食べさせた。「懐かしい味がする」というおじにニンマリする私。そんなとき、一通のエアメールが届いた。アフリカにいる鳴尾聡史からだった。負傷して日本に帰るという。「会いたい」という聡史にどう返事をすべきか、迷う私におじは、「彼はもう、昔の彼ではなくなっているかもしれない。そんな彼を丸ごと受け入れる覚悟があるか?」と問い、そして言った。「あるなら会いなさい。私のような後悔はしてほしくないから」。千里さんも同じ「後悔」という言葉を口にした。千里さんの後悔は何か? それには答えがなかった。5年ぶりに会った聡史は、負傷した脚を引きずっていた。しかし、痛んでいるのは、体に負った傷よりも心に負った傷のほうだった。銃弾に脅えて逃げ出したことを後悔し、自分を責める「青銅の騎士」に、私は、おじから聞いた言葉を伝えた。「騎士は、何もプロである必要はないんだって」。その言葉に、少し聡史の顔が和らいだ。そして私は、聡史と砂の味のするキスを交わした。そのキスをおじがからかう。お返しに私は、おじに食べさせたパンを焼いたのが千里さんであることをバラした。その千里さんは「許してくれるなら」と、かつての恋人に再会することを望んでいる。おじはおじで、「許してもらいたいのは自分のほうだ」と言う。そして私はついに、千里さんに自分が「かつてあなたを愛した男の姪っ子」であることを告げた。しかし、そこでわかったことがある。おじと千里さんがたがいに「許してほしい」と願っていることは、まったく違っているようだった。そんなある日、私は千里さんに招かれて、閉店後の店を訪ねた。千里さんはお見せの上階にある部屋に私を招き、ふたりですき焼きを囲んだ。その部屋に、おじの写真はなかった。「なぜ?」と疑問をぶつける私に「別れたから」と言う。その理由は、おじがかつて発した受け入れがたいひと言。おじは、「子どもは嫌いだ」と言ったのだった――。
⇒この話は、連載25回目です。この話を最初から読みたい方は、こちらから、
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 そろそろ帰らなくちゃいけない時間だった。
 「あの……わたし、そろそろ……」
 席を立つと、千里さんは、「ごめんなさいね。遅くまで引き留めちゃって……」と、申し訳なさそうな顔をした。
 「いいえ。わたし、千里さんとお話ができて、うれしかったです。また、お邪魔してもいいですか?」
 「もちろんよ。でも、おじさんは、あなたがここへ来ていること、ご存じなの?」
 「ヘヘッ……。こないだ、コクっちゃいました」
 「コクった……?」
 「あ、告白したってことです」
 「それで? おじさんは、何て……?」
 「いままで見たこともないほど、動揺してました」
 「動揺……?」
 「おまえは、何てことをしてくれるんだ――って。わたし、おじから『おまえ』呼ばわりされたの、それが初めてだったんですよ。あ、こりゃ本物だって、ピンときちゃった」
 「本物……って、何が本物だって言うの?」
 「おじの千里さんへの……何て言うんだろ? 思慕? いまでも、この人、千里さんが好きなんだ――って。これ、姪のカン! ですけど……」
 「あなたって……」と、千里さんは、目の縁にシワを浮かべて言った。
 「相当、おせっかいな性格ね。周りから言われるでしょ?」
 「ええ……? そうですかぁ?」
 「じゃ、今度は、わたしがお節介してあげるから、なんてったっけ、あなたのカレ氏?」
 「聡史ですか?」
 「そうそう。その聡史さんの話、聞かせて」
 「ハイ。たっぷり……と」
 言いながら、壁に吊るしたコートに手を伸ばそうとした私の目に、チェストの上に置かれたオブジェが目に留まった。
 十字架を配した銅製の置き物。その中央に聖母子を描いたプレートがはめ込んである。
 あれ……? 千里さんってクリスチャンなの……?
 そう言えば、胸元にも十字のプチペンダントをぶら下げてたし……。
 見ていると、「ああ、それね」と千里さんが声をかけてきた。
 「南仏を旅行したときに、骨董屋さんで見つけたのよ」
 「千里さんって、クリスチャンなんですか?」
 「そういうわけじゃないわ。ただのお守り」
 「ヘーッ。何のお守りですか?」
 「いろいろよ……」
 赤子を抱いて微笑む聖母の慈愛に富んだ顔。その胸で安らかな寝顔を見せるイエスと思われる幼子。見ていると、心の中に平和が満ちてくるような気がする。
 しかし、千里さんは、それ以上、そのオブジェの意味を語ってはくれなかった。

    クローバー

 お別れするときに、千里さんに訊かれた。
 「きょうのこと、おじさまには話すの?」
 「黙ってたほうがいいですか?」
 「まかせるわ。あなたの好きにして」
 まかせるってことは、話してもいいよ――ということだろう。
 千里さんは、私のおせっかいを決して不快には思ってないはずだ――と、私は確信できた。
 帰ったら、おじを叩き起こしてでも、「きょうね……」と話したくなるに違いない。
 それを聞いたときのおじの顔が目に浮かんだ。「あきれたやつだ」と怒ったような顔をしながらも、きっと、あれこれと聞きたがるに違いない。

 外へ出ると、年末の寒波が体をブルッ……と震わせた。
 上りの電車には、ほとんど乗る人もいない。
 ガラ空きの車両に乗り込むと、私はシートに深々と体を沈めて、ヒーターの熱をむさぼった。
 「きょうね、千里さんのお家に行ったのよ」と、まず、報告してやろう。
 それとも、あれを訊いてやろうか――。
 「おじさん、千里さんに『子どもは嫌いだ』って言ったんだって? どうして、そんなこと言ったの?」
 きっと、おじは「記憶にないなぁ」とかなんとか、とぼけるに違いない。
 そしたら、言ってやるんだ。
 「そんなこと言うから、千里さんは、おじさんと別れることを決めたんだよ。どうして、ウソでもいいから、その後で、キミとボクの子どもだったら別だけど――って、言ってあげなかったの?」
 そのときだった。
 頭の中に浮かべた「キミとボクの子ども」という言葉に、突然、ひとつの映像が重なった。
 あのオブジェ……。
 幼子を胸に抱く聖母の絵がはめ込まれた、あの銅製のオブジェ。その全体を支えるように配された、贖罪の十字架。
 あれは、もしかしたら、千里さんがおじとの間に期待したものの姿……?
 まさか――という想いが、胸の奥から湧き上って、私はブルブルと頭を振った。
 それは、笑えない想像だった。

    クローバー

 結局、その夜、千里さんと会ってきたことを、おじには話さなかった。いや、話せなかった。
 離れのおじの部屋には明かりがついていたが、歌声は聞こえなかった。
 時計を見ると、もう、11時半。
 そうよね、こんな時間に歌ってたら、近所迷惑よね。
 シャワーを浴びて寝ようと思ったら、携帯が着信を告げた。聡史からだった。
 「明日、もし時間がとれたら、会わないか? ちょっと、話したいことがあるんだ」
 「エッ、話したいこと?」
 「ウン。オレと沙世の将来に関わる大事な話」
 何だろう……?
 胸の奥がザワッ……となった。
 翌日の仕事が退けた後の午後6時、いつもの書店で――と約束して、電話を切った。
 なんだか、今週は、あわただしい――。
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