花音は足音も立てずに、迅人の母親の後ろに近づいた。迅人の母親は落ちて行った男を見下ろして呆然としていた。放心状態、と言うのだろうか。
花音はその横に行って、同じように下を見下ろす。歪に変形した男が地面に倒れていた。割れた頭からどくどくと溢れ出している真っ赤な血、醜い男の醜い死に様。
「ウフッ」
無意識に声が漏れた。その声に花音の母は、初めて花音が横に来ている事に気付いた。彼女はビクッとして花音を見た。
「だ…誰…?」
泣きながら震えている迅人の母親は、花音には怯えた子供のように見えた。花音の方がずっと子供なのに、彼女の方がなんだか小さく見えた。
「わ…私……なんて事を……」
「何が?」
花音の口に笑みが浮かぶ。何故だろう、無性に可笑しかった。あの男はこんな結末を予想もしていなかったに違いない。
「私…ひ、人を…け、警察に……」
「おばさんは何もしていないじゃない。あの男は勝手に落ちたんだよ」
そう言って花音は再び、落ちた男を見下ろす。
「おばさんはあの男に触れていないもの。何も悪くないよ」
「で…でも……私が、こ、この包丁を……」
迅人の母は握ったままの包丁を見る。硬く握られたその手はまるで固まってしまったかのようになっている。
「包丁には血もついていないよ、だからおばさんは何もしていない。だって、悪いのはあの男。佐久良君を殺したのはあの男なのだから」
「佐久良君…?あ、あなたは迅人の…?」
「同級生…だった。ずっと不思議だったんだ、佐久良君が自殺なんてする筈ないって、どんな事があっても、佐久良君は自殺なんてしない。そう思っていたから、やっぱり、私の思っていた通りだった。おばさんもそう思っていたのでしょう」
「迅人から…な、何か聞いていたの…?」
その問いに花音は首を横に振る。
「聞いていたら…佐久良君を死なせたりしなかった。その前に…」
その前にあの男を殺った――そんな言葉が出そうになる。もっと早くに迅人の異変に気付けていたら、あのホームで見掛けたのが迅人だと分かっていたなら、もっと早くに手を打てたかもしれない。そんな風に思ってしまう。人の事など、どうでも良いと思って生きてきたはずなのに。
「佐久良君は、太陽みたいだったんだ…」
「でも……私は…」
「あのおじさん、自殺したんだよ」
「自殺…?」
「だって、自分で落ちたんだもの。そうでしょう」
「それは……」
「それで良いんだよ。おばさんが警察に行っても誰も喜ばない、子供はどうするの?施設にやるの?」
「施設…?」
「私、施設にいたから。私は親のところにいるよりずっと良い場所だったけど。おばさんみたいなお母さんがいたら、やっぱり普通はお母さんと一緒が良いんじゃないかなって思う。まあ、私、普通ってよく分からないんだけど」
迅人の母はまだ震えが止まらない様子だが、少しずつ花音の言葉に耳を傾けているように見える。
「おばさんはもう家に帰って。後は私がちゃんとしておくから」
「ちゃんと…って……」
「おばさんは何も悪くない、悪いのはあの男」
花音は男の落ちた方を見てはっきりとそう言った。
「だから、大丈夫だから」
「大丈夫って…」
花音は再び、上から落ちた男を見る。醜く歪んだ姿が壊れたロボットのように見える。
「こ、怖くないの…?」
「どうして?」
二っと笑ってそう答える花音。まるで怖い物を見るように花音を見上げる迅人の母の表情。
「私、やっぱり変かな?よくそう言われるんだ。佐久良君は言わなかったけど」
そう、迅人だけは一度も花音の事を変だとは言わなかった。
――お前、強いな――
迅人はよくそう言った。それも花音にはピンとこなかったが。
「あなた、もしかして迅人の小学校の…お母さんが、殺された…あの…」
「私の事知っているの?」
「迅人がよく話していた…凄く強い子がいて、人に何言われても平然としていて格好良いんだよって」
「…格好良い?」
一瞬、胸の中に何かが込み上げるような感覚が走った。花音は無意識に胸を抑えた。
(何…?)
初めての感覚。
「は、早く行って!」
花音は迅人の母を追い立てるようにその場から帰らせた。
(今のは…何?)
瞼に迅人の顔が浮かぶ。太陽の光を背に浴びて笑っている迅人が見える。
(もっと…話したかった……)
そんな思いがふっと過った。花音はその思いを振り切るように頭を振って下に降りた。そこには醜い男の醜い亡骸が転がっていた。花音にはただのゴミにしか見えない。花音はハンカチを出して男の靴を脱がせ、持って上がると元居た踊り場に戻る。そこに置いてあった花束の横にそれを揃えて置いた。
そして最後にもう一度、上から男を見下ろした。
「さよなら」
小さな声でそう呟くと、花音は静かにその場を離れた。
(佐久良君、終わったよ)
心の中でそう呟いた。