今日の「 八戸育ちの 八戸っこ かわむら 」 のブログです。。。。
昨日は戦国時代の下克上の東北の覇者、津軽為信公について
興味が湧きました。。。。。
津軽と南部の仲があまり芳しくないことは知ってたものの、
どうしてそうなったか判らない方もいるのでは。。。。
昔ほどではなく、津軽から遊びにきた若い人たちは標準語を
使ってるので、そういう話もすんなり話が見えるようになった。。。。
※ バス停も市庁前
歴史じっくり紀行
津軽為信 英雄?梟雄?一代で津軽を平らげた破天荒な『髭殿』
https://www.youtube.com/watch?v=PXl3Z6sqrQI
英雄 ~ 才知・武勇にすぐれ常人にできないことを成し
遂げた人
梟雄 (きょうゆう) ~ 残忍で強く荒々しい人。
津軽(大浦)為信公は三戸南部氏第26代当主 南部 信直公
(なんぶ のぶなお)の父親を死に追いやり、その後南部家の
領地だった津軽地方をわがものにしていったが、津軽人に
とっては英雄、南部人にとっては梟雄 (きょうゆう) と
はっきり評価が分かれる人物だ。。。。
全く関係がない第三者から見ると
(狡猾な) 機敏な津軽と、(愚鈍な ) 実直な 南部という評価も
あるが、意外なことに敗者石田三成公の子孫を大切にし、子孫は
津軽家藩主や重臣になったり、開かずの宮から豊臣秀吉公の
木像が発見されたりと、義理堅い一面もあった津軽為信公だ。。。。
秀吉公に取り次いでくれた石田三成公のおかげで秀吉公に
領土を認めてもらえたが、ある意味底辺からのし上がった
秀吉公に自分を重ねて、尊敬してたのでは。。。。。
南部町出身のこの方のブログも
坂本サトル オフィシャルブログ by ameba
再録&加筆修正「津軽と南部」
https://ameblo.jp/sakamotosatoru/entry-10545890925.html
やはり津軽と南部の藩境の津軽領青森市に県庁がおかれ、
南部は対抗して八戸市庁になったようです。。。。
これだから日本史は面白く興味が尽きない。。。。