ブラジル-ポルトガル語の講師はいかにして日本にやって来たか? | BOOTS STRAP 外国語と ゆかいな哲学の館

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ありふれた日常を考察する
<芦屋・三宮>

当方は18カ国語の外国語スクールを謳っている。
ここ暫くは、かつてのエッセイ風ブログというより、
この外国語スクールでの出会いや出来事に関連したことを書いている。
様々な、泣き笑いがあったことをちょっと認(したた)めてみたいという気持ちになって
10月初旬からこのスタイルで筆を進めている。
思えば、わがスクールの講師たちは、それぞれの縁で日本にやって来て、
ほとんどの講師は、これからも日本で過ごそうとしている。
遠い異国から何のご縁で日本にやって来たのか?
講師のそれぞれに、ドラマがある雰囲気を持っている。
今日、書いてみたいと思ったのはブラジルーポルトガル語の講師をしているMのこと。

Mはブラジル生まれではあるが父も母も日本人という全くの日系人女性。
誕生年は、日本流に言えば団塊の世代後期。ブラジル移民という立場で生まれ育った。
父も母も日本人ではあるが、両親ともにブラジルに溶け込もうと、
家でもポルトガル語で話そうと努めた人らしく夫婦二人の時以外はポルトガル語で話していたという。ただ、そのポルトガル語は誤りも多かったことをふと漏らしたことがあった。
日系人として生まれ育ってはいたが、
彼女は生まれながらのブラジル国民であり、日本に関心を持つより、
ブラジル人としてのアイデンティティの中で暮らしていたという。
日本に行く気などは全くなかったという。

日本人の南米移民が始まって150年。
彼女の両親は、おそらく戦後、ブラジルに移住したと思われる。
かつて、NHK のテレビドキュメントとして、1968年、移民船「あるぜんちな丸」に同乗して取材し、その様子を描いた「乗船名簿AR-29」というテレビ番組が放映された。
それをたまたま見た記憶がある。
それから10年ごとに訪ね回り、昨年だったか「50年目の取材」が敢行された。
1968年放送分は、1カ月に及ぶ船旅で移住する人たちの様子を撮り、
移民する人たちはそれぞれに夢を語っていた。
おそらく、M のご両親もそのようだったのだろう。

Mが日本にやって来たのは彼女が50歳になってからだった。
かつて、関心がなかった日本だったが、ちょうど子育ても終わり、
これから何をすべきなのかを考えていた頃。
日本で労働力不足が言われ、その労働力不足を日系2、3世で埋めようとするかのような
当時の日本の政策があった。
その時、日本で自分に何かできるのではないか? 親の故郷の国を訪ねてみたいと思い、
日本の政策に応募して日本にやって来たという。
日系人ではあったが、家で日本語を使っている訳ではななかったので、
その当時は、辿々しい日本語しか話せなかった。
日本にやって来たからと言って希望する職種につくことはできなかった。

さて、その後どうなったか?また、ここで時間が来てしまった。
この続きは、また明日。

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<了>