おはようございます。 Bom dia a todos!
ご機嫌いかがですか?
今日も一緒にお参りをいたしましょう!
今日はYouTubeをアップしました。ブラジルでは線香は現地のものがあるのですが、お焼香がないので線香をバラバラにして使ったり、もしくは日本で買ってきて使っています。
ところがブラジルにもキリスト教でつかう乳香、没薬がありました! たまたまお店で手に入ったので使ってみました。
動画でその様子をご覧ください。
さて、今日は『大無量寿経』です
O Sutra Maior Sobre o Buda da Luz Infinita
https://www.terrapuradf.org.br/wp-content/uploads/2012/05/sutra-maior.pdf
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(10)
恩愛はなはだたちがたく
生死はなはだつきがたし
念仏三昧行じてぞ
以上龍樹菩薩
恩愛はなはだたちがたく
生死はなはだつきがたし
念仏三昧行じてぞ
罪障を滅し度脱せし
ワタリ反
マヌカル
已上龍樹菩薩
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
恩愛
おんない
父母妻子等に対する世俗的な情愛。流転生死の因となる。(高僧 P.580)
罪障
ざいしょう
往生のさまたげとなる罪、悪業。(高僧 P.580, 御文章 P.1135, P.1183)
度脱
どだつ
済度(さいど)に同じ。迷いの世界からさとりの世界へ導き入れること。 (大経 P.9,大経 P.48, 行巻 P.171,真巻 P.341, 浄文 P.483, 高僧 P.580、安楽集 P.198)
迷いの世界からさとりの世界に至ること。 (要集 P.1101)
http://guga-gubutsu.com/archives/2508/
宗祖と現代」 吉元 信行
2008年12月01日
いろはうたと仏教
私たちが子どもの頃、最初に覚えて、今でもはっきりと諳んじることのできる「うた」に“いろはうた”がある。「いろはにほへと・・・・・」云々の47文字は、一つとて同じ文字はなく、成立当時に使われていたすべてのかな文字を網羅している。私たちはこの“うた”を小学生の頃から自然に習い、今でもはっきりと覚えている(最近は中学でしか教えないという)。
“いろはうた”を記した現存最古の文書は、1079年に書写された『金光明最勝王経音義』であるから、この年代よりやや古い頃の成立であると思われる。私たちの先祖たちは、このような古い時代からこの“うた”に慣れ親しんできたのである。しかし、これに濁点をつけて、次のような意味のある「うた」であることを意識して諳んじている人は意外と少ないのではなかろうか。
色は匂へど 散りぬるを
我が世誰そ 常ならむ
有為の奥山 今日越えて
浅き夢みじ 酔ひもせず
花が色あざやかに咲き、いい匂いを放つけれども、いずれ散ってしまうように、私たちの世界や人生で一体誰が常住であるでしょうか。[そのことに気付き]煩悩にまみれた世界(有為)の奥山を今日越えて(超越して)、浅い夢など見ないように[涅槃の世界に行きましょう]、酔ってもいないのだから。
このような解釈ができるのは、古来、“無常偈(雪山偈)”として知られる『涅槃経』の偈「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽」(巻一三)の意味を採ったものであるからである。すなわち、この“無常偈”と“いろはうた”の句を対応させると次のようになる。
諸行無常 色は匂へど 散りぬるを
是生滅法 我が世誰そ 常ならむ
生滅滅已 有為の奥山 今日越えて
寂滅為楽 浅き夢みじ 酔ひもせず
“無常偈”は、あらゆる存在・現象は無常であり、この世は移り変わるのが当然である。この移り変わりの世界を滅してしまった寂滅の境地こそが楽(涅槃)であるということを教えている。この偈は、仏教の根本思想を四句にまとめたものである。この漢文の難しい教義を日本人に親しめるやさしい「かな」によって表現したのが“いろはうた”であるとされる。
親鸞聖人は、恩愛にむせび輪廻にさいなまれているこの世は当然「諸行無常、是生滅法」の世界ではあるが、このことに私たちがそうは簡単に頷けない凡夫であることを悲歎され、次のように述懐して、ただひたすらに念仏することこそが、すくい(度脱=寂滅・涅槃)への道であることを示してくださっている。
恩愛はなはだたちがたく
生死はなはだつきがたし
念仏三昧行じてぞ
罪障を滅し度脱せし
(高僧和讃『真宗聖典』四九〇頁)
中津組 大日寺住職 吉元 信行
教区報『遇我遇仏』14号
On-nai hana-hada tati gataku
Shôji hana-hada tsuki gatashi
Nembutsu-sanmai-gyô jitezo
Zaishô wo metsu shi dodatsu seshi
“... os nossos apegos são demasiadamente difíceis de serem rompidos.
O Samsara é demasiadamente difícil de ser esgotado.
Somente através da Prática do Samadhi do Nembutsu
É que podemos destruir os bloqueios kármicos e atingir a Libertação.”
Kôsô Wasan (Hinos em louvor dos Patriarcas) composto pelo Tonsurado Ignorante Shinran – Ryûjû Bosatsu (Bodhisattva Nagarjuna)
Rev. Wagner Haku-Shin / Shinshû Ôtani-Ha Apucarana Nambei Honganji
*As estrofes 3 e 4, durante a prática da liturgia, devem sempre ser recitadas em continuidade e nunca separadamente.
**Aqui se encerram os versos em Louvo a Nagarjuna (Ryûjû Bosatsu).
お西オフィシャル
(10)
Todavia os nossos apegos são demasiado difíceis de romper
E o Samsara, demasiado difícil de esgotar.
Praticando o Samādhi do Nembutsu'
Podemos destruir nossos bloqueios kármicos e atingir à Libertação."
1 Samādhi do Nembutsu 念仏三昧: 'Samādhi' significa concentração ou meditação. O Samādhi do Nembutsu refere-se à concentrada prática do Nembutsu.
感話
今日で龍樹菩薩の和讃は最後になります。
上記に吉元 信行先生の言葉を引用させていただいています。
このような形でこの私という人間を救うために菩薩が自ら懺悔し修行して念仏の行を完成しプレゼントしてくださっているというその歴史の営みが脈々と受け継がれていることに感謝します。
仏教を少し勉強しても頭に入らないし、根性も自分が思うように真っ直ぐになりませんが日々このような先人の言葉に触れることができるのはありがたいことです。これもネット時代のいいところだとそこにも感謝してます。
それではまた明日も一緒にお参りをいたしましょう!
チャオチャオ!!!
apego
[a ́peɡu]
男
1 [+a·por への]執着,頑固,固執; 愛着,愛情:
ter apego a...
…に執着する; …に愛情を持つ.
2 犂柱(りちゆう)〖すきを引く長柄〗.
3 解剖関節
demasiado, da
[demazi ́adu, da]
形
1 あまりに多くの,過度の:
luxo demasiado
過度のぜいたく.
2 不節制の.
3 不当(法外)な.
4 無駄な,余分の
副 過度に:
comer demasiado
食べすぎる
esgotado, da
[ezɡo ́tadu]
形
1 尽きた; 使い果たした:
estar com os recursos esgotados
資金が尽きた.
2 売り尽くした,品切れになった:
A edição está esgotada.
その版は品切れである.
3 疲れ切った:
Estou esgotado.
私は疲れ果てた
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