かつての終身雇用制が崩壊して
新しい働き方やライフスタイルを模索する人も
若い世代をはじめ、どんどん増えています。
25歳から東京で週休5日の隠居生活?を始めて
年収100万円以下で6年間暮らしたという著者。
この本に興味を惹かれたのは
ハウツーではなく、結局は
お金をめぐる生き方の本質について
触れられていたからといえます。
はじめに明確にしておきたいのですが、お金について考えるとき、「自分がどうありたいのか」という問題を避けて通ることができません。というか、もっと正確に言うなら、お金のことは、「自分がどうありたいのか問題」の一部でしかない、という気がします。
お金の不安をなくすことが目的なのではなく、お金の不安がなくなったそのとき、自分がどんなふうに生きていくのか、ということのほうが重要だからです。
でも、しつこいようですが、これが本当に大切なんです。いくら稼ぐか、節約するかよりもまず、自分がどうありたいのかを洗い出していくこと。お金のことだけを見ていると、人生の本質を見失います。
確かに現代社会では、生活していく上で
お金は必要不可欠なものかもしれませんが
必要以上に振り回されてしまうと
自分の人生の本質を見失ってしまいかねません。
バイトに明け暮れても暮らしが楽にならないという
不毛な現実に気づき、当たり前だと思い込んでいた
家賃の見直しなどから始めて、
最低限のお金で、しかし好きに生きてみたという
大原さんの体験と考察には
実に示唆深いものがあるんですね。
東京で家賃七万円なんて普通だよ、と言われたら、「あなたにとってはそうなんですね」と思っておけばいいのです。
他の誰でもなく、自分にとっては高い、というのがわかっただけでも、「自分だけの幸せのサイズ感」に一歩近づいたということなので、喜ぶべきことです。
自分にちょうどいい幸せのサイズ感がどれくらいなのかは、当然ですが人それぞれ。初めからわかっている人は稀ですよね。やはり親元を離れ、すべては自腹で生きるという経験をしないと、自分には何が必要で何が不必要なのか、真剣に問いかけることをしないまま済ませてしまいがちです。ひとり暮らしをすることの最大のメリットは、「どうすれば自分が幸せなのかに強制的に向き合わされる」ということかもしれません。
大事なのは
「自分だけの幸せのサイズ感」そして
要らないモノをそぎ落として初めて必要なモノがわかる。
「どうすれば自分が幸せなのかに向き合う」こと。
でも、社会で当たり前とされていることは、必ずしも正しいとは限りません。みんなが当たり前のようにこなしていても、自分は苦しいと思うなら、それでいいんです。自分だけの実感に、他人がとやかく言う筋合いはありません。他人と比較して、どちらのほうがより苦しいというのも無意味です。
ただ、苦しいと思ったその気持ちは、そこから抜け出すためにいつか必ず役に立ちます。それまでどうか失くさないようにしてください。自分だけの実感を、「社会の当たり前」に明け渡してしまわないことが大切です。
意外かもしれませんが、私が郊外に引っ越した時点では、隠居を目指していたわけではありません。ゆくゆくは週休五日で年収九十万円で生活できるようになるなんて、夢想だにしませんでした。
いま考えてみると、目標を持たなかったことのメリットはふたつあったように思います。①さっさとそこから抜け出せた
②思わぬ展開を楽しめ、受け入れることができた
- さっさとそこから抜け出す
目標がない行動してはいけないというルールはありません。
いま、そこにいるのがどうしてもつらいなら、抜け出すための立派な目標や理由を作るより、つらさを軽減するほうが先決です。目標がまったく要らないと思っているわけではなく、もし必要なら、落ち着いて考えられるようになってから、作ってもいいんじゃないでしょうか。
- 思わぬ展開を楽しみ、受け入れられる
私は今まで生きてきて、ほとんど夢や目標を持ったことはないんです。
するとどうなるかというと、いろんな可能性によく気がつくんですね。ゴールを設定していないから、右にも左にも行けるし、思わぬところに道を発見することもある。そしてそのときウキウキするほうを選んでいると、想像もしなかった方向に事態が展開していき、隠居のできあがり、というわけです(私の場合)。
隠居というのは言葉のあやみたいもので
全く働きたくないというわけでもなく
むしろ自分に忠実に生きることに
情熱をもっている方ですね。
ところで、私はなぜ、金銭的に苦しい生活から抜け出すのに一年半もかかってしまったのでしょうか。
お金に対する漠然とした不安がなくなった今、以前の私自身について振り返ってみると、長い時間をかけて自分のなかに培養されていた「お金に対するあきらめ」があったのがわかります。そして、その先にあるのは「自分がどうありたいか」に対するあきらめでもあります。
私たちの世代は、というか、もしかしたら全世代がそうなのかもしれませんが、「生活していくためには、おかしいと思っても疑問を持たずに働き続けなければならない」ということを、それこそ未成年のころから擦りこまれてきました。
中学生になったら「高校に進学できないぞ」と脅され、高校生になったら「大学に進学できないぞ」と脅され、たぶん大学に入ったら「新卒じゃないと就職できないぞ」と脅され、意味もわからん校則にも問答無用で従わされ、履歴書や志望理由書を一文字でも間違えようものなら最初から書き直させられ……。
「そうしないと世の中ではやっていけないぞ」と脅すばかりで、「失敗しても生きてはいけるから大丈夫だよ」と言ってくれるような大人は、私の周りにはひとりもいませんでした。
だから私は、上京してから一年半をかけて、誰の応援もないまま「進学・就職しなくても生きてはいけるか」をゼロから自分で確かめなければいけなくて、非常に心細かった。
最低限生きていくだけなら週二日の労働でも大丈夫じゃん、と自ら実験してわかった今、あの頃の私が通った学校に戻れるなら、「進学・就職しないと生きていけないなんてウソですよ!」と全校放送したい気分です。
とはいえ、何も知らない未成年のころから「生きていけないぞ」と脅すのって反則だろうと思う一方で、自分で確かめもしないうちから、それを当たり前のこととして受け取ってしまったのは、半分は自分の怠慢だったと反省もしています。
金銭的には苦しかったけれど、自分がどう生きていきたいのかと向き合わないまま、アホみたいに高い家賃を払うことも、そのために働きまくることも、「当たり前」で済ませておくのって、ある意味ではラクでしたから。
あれって共犯関係だなあと思う。
「考えなくていい代わりに、言った通りにすれば社会からの受容と、居場所を与えてあげますよ」という人と、「自分が選択したことの責任を背負わずに済むならそれでいい」という人がいて、初めて成り立つ関係。不覚にもまんまと乗っかっていました。
自分の中にある、お金や、自分がどうありたいかに対するあきらめに、手遅れになる前に気がつくこと。
そのために、自分で確かめたこともないのに当たり前と思っていることはないか、注意深く探してみること。
当たり前と思っていることがあるなら、それが本当に正しいのかどうか、やりやすいものからひとつずつ確かめ、実践を積み重ねていくこと。
むりやり生活を変えることが目的ではないので、「こう生きなきゃいけないってわけでもないな」という余裕を、いざというときのために自分のなかに作っておくだけでもいい。それもなるたけ早いうちに。習慣というのは、長ければ長いほど変えるのが難しくなってきますから。
私は低所得生活を人に勧めるつもりは毛頭ないんですが、みんなが「低所得だから」「高齢だから」「不景気だから」「親や周囲にそう言われたから」「それが当たり前だから」といった消極的なあきらめからではなく、「自分がどうありたいか」という積極的な態度で毎日を過ごしている社会を、生きているうちにひと目見たいとは思っています。
きっと壮観だろうと思う。
引用が長くなってしまいますが(;´∀`)
とても大事な点だと思うのです。
また、大原さんは、満足の最低基準を
「好きなことをしているか」ではなく、
「イヤなことをしないでいられるか」で判断しています
というのも参考になるのではないでしょうか。
やりたいことがわからなくても
やりたくないことはわかるはず。
世界を自分なりにカスタマイズしていく上で、もし私にアドバイスできることがあるとしたら、子どものころに何をしているときが一番ハッピーだったか、思い出してみるといいかもしれません。
何かに熱中しすぎて怒られたことが、誰でも一度はあるんじゃないでしょうか。もしあなたが、この本を読んで、世間の当たり前を見直し、お金のために働くことをやめ、お仕着せでない自分だけの人生を作っていきたいと思ったら、あの頃の自分に聞いてみてください。きっと何かを知っていると思います。
その時々のハッピーに合わせて
ライフスタイルも変わっているという大原さん
今は台湾でライターとして暮らしているそうです。
要するにもうひとつの自由って、「幸せをお金に依存している状態から自由になること」なんですね。お金があってもなくても、どこで何をしていても、ハッピーを感じられるような心のありかたと言いますか。
大切なのはお金の量ではなく、どんな気持ちでそれを受け取り、そして手放すのかなのだと、いま切実に思います。
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