逝きし世の面影さんのサイトより
https://blog.goo.ne.jp/syokunin-2008/e/49512b2dea78450b865ca52e5bc75692
<転載開始>
2019年08月18日 | 東アジア共同体
渡邉英徳‏ @hwtnv

74年前の今日。1945年8月18日,占守島の戦い。ポツダム宣言受諾後も,ソ連軍・日本軍間の戦闘は継続。日本軍優勢に推移するものの,21日停戦,23日武装解除。捕虜の日本兵はシベリアに抑留された。写真は放置された日本軍の戦車
(★注、ソ連のカムチャツカ半島と向かい合う形の千島列島最北端の占守島には精鋭部隊を配備して日本軍が要塞化を進めていた。『玉音放送』でいったんは武装解除・降伏する心算だった日本軍守備隊に対して札幌方面軍司令官から徹底抗戦の命令が出されたことから激戦が勃発、ソ連軍の損害は日本軍の二倍以上にも達する)


米ソの共同作戦だったソ連軍の千島占領
2018年01月04日 | 東アジア共同体

『ソ連の北方四島占領、米が援助 極秘に艦船貸与し訓練も』2017/12/30 北海道新聞

根室振興局の調査結果によると、千島列島と引き換えに、ソ連の対日参戦が決まった45年2月のヤルタ会談の直後、連合国だった米ソは「極秘合同作戦プロジェクト・フラ」をスタートさせ、 米国は45年5~9月に掃海艇55隻、上陸用舟艇30隻、護衛艦28隻など計145隻の艦船をソ連に無償貸与。4~8月にはソ連兵1万2千人が米アラスカ州コールドベイ基地で1500人の米軍スタッフから艦船やレーダー習熟訓練を受けた。
このソ連兵と貸与艦船は樺太南部や千島列島の作戦に投入され8月28日からの北方四島占領には、米の貸与艦船10隻を含む17隻が参加。ソ連軍は各島で日本兵の武装解除を行い9月5日までに完了した。

■ソ連の独断ではなかった 
和田春樹東大名誉教授『北方四島占領を含む旧ソ連軍の対日作戦を米国が軍事援助していたことは、日本国内ではほとんど知られておらず、発見と言える。四島占領はソ連が勝手に行ったのではなく、米ソをリーダーとする連合国の作戦として行われたということを示している。』

『北方領土問題、米国の責任 ソ連の対日参戦後押し』

旧ソ連軍による北方四島占領は米国が軍事援助をしており、責任が米国にあることが示された。
米国は、日米開戦前には「領土不拡大」表明していたが、千島列島を取引材料に持ち出し、同じ連合国だったソ連から対日参戦の確約を取り付け、さらに極秘プロジェクトで大量の艦船を提供し、ソ連兵の訓練を自国内で引き受けてまで、ソ連の対日戦争を支援した。
戦後、米ソ関係が悪化し東西冷戦時代に入ると1956年日ソ共同宣言(歯舞色丹の2島返還による平和条約締結)にアメリカが強硬に反対したことから、一転して日本は『北方四島一括返還』を強く求めるようになる。 (★注、現在政府は日本が放棄した千島列島に南千島の国後択捉は含まれないと説明するが、アメリカが主導したサンフランシスコ講和条約全権だった志田茂首相は『国後択捉など全千島が含まれる』と明言している)

『ソ連軍参戦こそが唯一の切り札だと知っていたアメリカ(ルーズベルト大統領)』

一億玉砕の地獄の地上戦を目指していた日本が、突然『本土決戦』の決意を翻してポツダム宣言を受諾して無条件降伏した原因とは、トルーマンの『100万人の米兵を救った原子爆弾』の禍々しい神話か、それとも原爆投下とほぼ同じ時期に行われたソ連赤軍の対日参戦の二者択一。それ以外に日本が翻意した原因は無いのである。
ところが、原爆とソ連参戦のどちらが真実であっても、あまりにも結果が恐ろしいのである。
特に最大のキーワードである『ソ連参戦』については、考えたくも無い。
そこで、日本人の全員が思考停止に陥って仕舞い、全ての真実はタブーとして封印して現在に至っている。

『1988年末に新しく作られた都市伝説「天皇の御聖断」(玉音放送)との美しい神話』

現在の日本人は全員が合理的な論理が通用せず8月15日の『玉音放送』(天皇の御聖断)の美しい神話(新しく作られた都市伝説)で誤魔化しているのですから情けない。
ところが、本当に負け戦で戦争を止めるだけの絶大な権力がヒロヒト(昭和天皇)にあったとしたら、開戦責任を問われ死刑になった東条首相以上の最高責任者だったことが自動的に証明され、東京裁判で『絞首刑』は到底免れないのである。
しかし『原爆神話』も嫌だし、『ソ連対日参戦』を認めるのはもっと嫌だ。
この、誰にも止められない太平洋戦争を止めた(無条件降伏で『本土決戦』を止めた)『御聖断』(日本人の救いの神としてのヒロヒト天皇)なる摩訶不思議な神話は、初めて1988年末からの天皇下血騒動(1989年1月7日ヒロヒト死亡)で突然マスコミが言い出した代物で、それ以前は右翼も左翼も有識者も誰一人も口にしなかったのである。(★注、この時躍進していた共産党だけは赤旗紙面で連日『ヒロヒト天皇の戦争責任』キャンペーンを行ったが多勢に無勢で惨敗する。これ以後日本共産党は長い長い低迷期に突入して未だに抜け出せない。まさに死にいくヒロヒト天皇の怖ろしい呪か祟りである)

『玉音放送』当時の日本人の多くは現人神として戦争を指導した大元帥ヒロヒト天皇が自決するが、最低でも譲位するものと信じていたが、一切の責任を放棄した『人間宣言』で何事も無く現在に至っている。
★注、これは信者が数々の殺人事件を引き起こした挙句、最後に未曾有の無差別テロ地下鉄サリン事件で強制捜査をうけ壊滅したオウム真理教の麻原彰晃教祖が、何の処罰も批判も受けずに後継組織の『アレフ』『ひかりの輪』でも相変わらず教祖に収まったような有り得ない話だった。


日本の敗戦後も、住民を盾に「全員戦死まで」対ソ戦争を強いる札幌方面軍兼北部軍管区司令官(第5方面軍司令官)樋口 季一郎陸軍中の卑劣さ

『NHKスペシャル「樺太地上戦 終戦後7日間の悲劇」』2017年8月14日(月)

NHKの番組案内から、『北海道の北に広がるサハリン。かつて「樺太」と呼ばれ、40万人の日本人が暮らしていた。昭和20年8月、終戦後にも関わらず、住民を巻き込んだ地上戦が1週間にわたって続き、5000人とも6000人とも言われる人たちが命を落とした。なぜ終戦後も戦闘は終わらず住民の被害が拡大したのか。長年沈黙を守ってきた元住民たちの証言、そして国内外で発掘した資料から、樺太の悲劇に迫る。』

8月16日に樺太師団に届いた「死ぬまで戦へ」の札幌方面軍の理不尽な玉砕命令』多くの日本人が知らない、もう一つのオキナワ戦(地獄の本土決戦)

『玉音放送』で武装解除の準備を進めていた樺太師団の本部に、終戦後にもかかわらず『樺太を死守せよ』との命令が札幌方面軍司令官から届いた。
命令を受けた樺太師団の鈴木康参謀長(大佐)は戸惑い『泣いて終戦命令を下し各隊が涙と共に実行中の16日午後 軍命令が届いた。今頃何事ぞと怪しみ考えてみたが合点がいかない。電話で作戦就任に尋ねる。はっきりした回答は得られない。』
樺太死守の命令を守り戦闘を続ける樺太師団の鈴木参謀長とソビエト軍との交渉が決裂。8月20日、ソビエト軍は樺太で最大の3万5000人が上陸作戦を敢行。日本側が5000~6000人が死亡する。
『樺太死守』を命じていた札幌方面軍は、大本営の指示を受けて8月22日になって命令を翻して『ただちに停戦せよ』と樺太師団に命令したので、ようやく停戦が成立、7日遅れで意味不明の不思議な戦争がやっと終わっている。

『時間稼ぎ?』

満州でも樺太でも千島でも同じで、ポツダム宣言受諾後に部下の将兵に『最後まで戦うべし』との命令を残して司令官や参謀など日本軍幹部は飛行機で本土に逃げ帰って仕舞い、残された一般市民や下級将校や下士官など敗残日本軍は無理やりソ連軍と死ぬまで戦わされた、(ポツダム宣言に違反する)明らかな戦争犯罪なのである。ところが日本を占領したアメリカ軍は自国の捕虜虐待などのBC級戦犯は厳重に罰したが、これとは対照的に無条件降伏後に部下に交戦を命じた日本軍幹部の戦争犯罪に対しては一切無視。(逆にソ連軍の蛮行との話にすり替える)


ロシア極東アムール州イワノフカ村で行われた慰霊祭に出席した僧侶の横山周導さん(左)=8月24日(共同)

【世界の街から】住民虐殺、ざんげの旅  シベリア出兵のイワノフカ村2018/10/3 ©一般社団法人共同通信社

1918年から始まったシベリア出兵時、旧日本軍が300人以上の住民を虐殺したロシア極東アムール州イワノフカ村を訪れた。20年以上も慰霊訪問を続ける岐阜県揖斐川町の僧侶横山周導さん(94)に8月、同行させてもらったのだ。
日本から飛行機と鉄道、バスを乗り継ぐ長旅だ。高齢の横山さんにとって負担は少なくない。それでも前村長で旧知のゲオルギー・ウスさん(94)に「ずっと忘れずにいてくれて、ありがとう」と出迎えられ、笑顔で応じていた。
村には三つの慰霊碑が点在する。
小屋に押し込められ焼き殺された36人に向けた碑。銃殺された子供や女性ら257人への碑。そして横山さんやウスさんの尽力で95年に完成した「哀悼の碑」。横山さんは静かに頭を下げ、読経をささげた。
日本ではシベリア出兵はなじみが薄く「忘れられた戦争」とも呼ばれる
7年間続き日本側だけで3千人以上も死亡したが、第2次大戦後のソ連によるシベリア抑留の陰に隠れがちだ。
横山さんも抑留経験があるが、この村の虐殺を長らく知らなかった。
日本人抑留者の埋葬地を探すため91年に村を訪れた知人から初めて聞かされた。「無知を恥じた」と、ざんげの旅を始めた。
出兵開始から100年の節目となる今年の慰霊祭では村の子供たちの姿が目立った。日本からも中学生が参加した。白い衣装に身を包んだ村の女性が歌う。「(日本を)責めてはいない。だが忘れることは許されない。忘れて生きることはできない。イワノフカの傷はそれほど深い」。憎しみを超えた悲しい歌声が青空に響いた。
(共同通信=ウラジオストク支局・飯沼賢一)

『忘れられた戦争』シベリア出兵の忘れられた大虐殺

100年前のこのシベリア出兵ほど不思議な戦争は無くて、実は今大流行の『人道目的の戦争』(有志連合の出兵)なのですが、そもそもがこじつけ。2017年ロシア革命の結果、ソ連は第一次世界大戦を離脱したことから孤立したチェコ軍団を救出するとの理由なのですが、もちろん口から出まかせの嘘八百。世界中の資本主義国がソ連に侵攻した侵略戦争(過激な冷戦!?)だが、2018年にはキール軍港での水兵の反乱からドイツ帝国が崩壊し第一次世界大戦自体があっけなく終わってしまったので、最初のチェコ軍救出の目的が消えるが、それでも領土的野心から日本軍4個師団7万人強の大部隊で遠くバイカル湖を超えて4年間もシベリア出兵は続けられている。(ウラジオストックや北樺太から日本軍が最後に撤退するのはシベリア出兵から7年後だった)
『忘れられた戦争』シベリア出兵で一番有名なというか、唯一有名な事件が1920年(大正9年)3月から5月にかけて発生した尼港事件である。
アムール川の河口にあるニコラエフスク(尼港、現在のニコラエフスク・ナ・アムーレ)では海が凍結して日本海軍の軍艦が近寄れいないので孤立した日本軍守備隊300人がいったん降伏するが、街を占領していた赤軍パルチザン部隊4000人に対し奇襲攻撃を仕掛ける。その結果は悲惨で日本兵だけでなく日本国領事夫妻を含む在留日本人の全員が犠牲になるが1945年8月18日の『占守島の戦い』と同じでまったく意味のない戦争だった(外部と孤立した街で起きたので真相は不明だが、朝鮮人も多数が巻き添えで殺されている)
尼港事件は日本人も覚えているが、対照的に全く誰も知らないのがシベリア出兵でのイワノフカ村虐殺事件。ほぼベトナム戦争でのアメリカ軍のソンミ村事件と同じで女性や子供を含む非戦闘員の村人300人を日本軍が赤色パルチザンへの『見せしめ』として虐殺していた。(当時の日本軍は住民虐殺を隠すどころか、逆に『日本軍に逆らえば(パルチザンに協力すれば)イワノフカ村の様になるぞ』と宣伝したらしい)
★注、
シベリア出兵では当時の国家予算の3~4年分もの膨大な戦費を使っていたので国内では米など物価が高騰して一般民衆の不満が爆発、有名な『米騒動』が起きている。日本軍はバイカル湖付近まで占領しているがソ連赤軍(正規軍)との戦闘には最後まで至っていない。しかし日本兵は都市を守るだけで農村部の一般ロシア人では圧倒的に赤色パルチザン(ゲリラ)の勢力への支持が強くて日本軍はじりじりと消耗、少しずつ追いつめられていく。(これも半世紀後のベトナム戦争時のアメリカ軍とほぼ同じ状態だった)



『ヒロシマの大虐殺が起きるたった3週間前だったアメリカの核実験の成功』

アメリカ合衆国は1945年7月16日に人類最初の核実験であるトリニティ(Trinity)をニューメキシコ州の砂漠で行って成功させる。
トリニティ(Trinity)とはキリスト教の根本原理である『三位一体』(神と子と聖霊)のことであり、写真はトリニティの核爆発(神の矢)を塹壕から見つめる動員された米軍兵士たち。

『9.11を経験したミレニアル世代の僕が原爆投下を正当化してきた理由』2019年8月15日(木)現代ビジネスより転載ニューズウィーク日本版‏ @Newsweek_JAPAN

<終戦から74年を迎えた東京で、「記憶の歴史」をテーマに研究中のアメリカ人大学院生がいる。彼は約半数のアメリカの若年層と同様、原爆投下は「正しかった」と考えていた。米コロンビア大学で、ある特別講義に参加するまでは>
1945年8月6日広島に、そして8月9日に長崎に原子爆弾が投下された。74年経つ今も、その傷跡は大きく残る。
2015年の調査でアメリカの18~29歳の若年層では、原爆投下を「間違っていた」と考える人が45%であるのに対し、「正しかった」と考える人もほぼ同数の41%存在する。
(抜粋)
★注、
このアメリカの『玉音放送』記念日のNewsweek_JAPAN記事ですが、アメリカの18~29歳の若年層で原爆投下の是非が半々なら戦争を知っている高齢層ならもっと『正しかった』が増えると思われるが、読み返してみても『何が言いたいのか』意味が良くわからない。
このNewsweek_JAPANと同じ趣旨のことを言っているらしい長谷川豊(元フジテレビのニュースキャスターで維新の会の国会議員候補)2015年12月23日 『私の戦争観』(長谷川 豊公式コラム本気論・本音論から抜粋)が下品だが分かり易い。

『原爆投下に感謝しろ』

別の時に教育機関に取材に行き、あまりに印象的だったために、私の書いた本の中にも紹介してあるが、「Atomic bomb(原子爆弾)」)について、取材をしていたところ、あるアメリカ人から声をかけられました。
「礼を言えよ」
そのアメリカ人は「アメリカの一般的な常識」を私に押し付けてきました。
「白人よりもはるかに劣るアジアのイエローモンキーが」
「白人よりもはるかに弱いくせに我々白人に逆らった挙句」
「パールハーバーで卑怯きまわりない奇襲攻撃をし」
「多くの同胞を殺した挙句、敗戦濃厚になっても竹やりで飛行機を突っついてくる」
「そんな愚かな行為をやめさせるために、神がアメリカだけに与えたもうた原子爆弾という『神の矢』によって…」
戦争を終わらせ、無駄な犠牲者を減らして「あげた」のだ。
礼を言え。
悪気を持って言ったのでも、侮蔑の意味で行ったのでもありません。
そのアメリカ人は、心の底からそう思っているのです。それが正しい真実だ、と。そして、実はその後、私も勉強して知るのですが、世界的な基本的な標準の意識は、そのアメリカ人の意識の方がよほど「常識」なのです。
私たちは唯一の被爆国(被害者)なのだ~という被害者感情など、基本的には世界の中で日本だけの感覚です。
世界では、今から70年前の日本は、明確にバカで愚かな「加害者」なのです。
2015年12月23日長谷川 豊『私の戦争観』から抜粋

『最初から出口(ドイツ降伏から3カ月後の1945年8月9日ソ連軍対日参戦)が決まっていたアメリカの原子爆弾の投下期日』

1945年(昭和20年)7月26日のポツダム宣言(日本の無条件降伏)では国体護持(天皇制)については何も書いていないので日本は黙殺したことからアメリカの原爆投下やソ連参戦を招いたするのが公式な歴史認識なのです、
ところが政府与党も野党もマスコミも有識者も認める、この公式な歴史認識が正しとすれば、現在の象徴天皇制をポツダム宣言(Potsdam Declaration)に書き入れてさえいれば、7月26日の時点で日本は即座に無条件降伏していた。そもそも最初のポツダム宣言の原案では現在の象徴天皇制(国体護持?)の文言は入っていたのである。最終的に削除したのはアメリカ(トルーマン)で、7月16日に核実験に成功したばかりの原爆が完成して、何んとしても日本に投下したかった。
最初から『出口』(ドイツ降伏から3カ月後1945年8月9日未明のソ連軍対日参戦)が決まっていた。

『ソ連労農赤軍は恐ろしい』

ソ連赤軍の対日参戦で、日本は即座に御前会議を開いて無条件降伏するとの『因果関係』を、曖昧に誤魔化すための巨大な『猫だまし』(あるいはred herring 間違いに誘導するニセの手がかり)としては、アメリカの原子爆弾の投下ぐらいしか上手い方法が無いのである。
この話は逆で(消去法で)、もしアメリカの原爆投下が『無かった』とすれば、ソ連軍参戦と日本の無条件降伏(ポツダム宣言受諾)との、あまりにも明確過ぎる因果関係に誰でもが気が付く。
右翼左翼とか知識の有る無しに関係なく日本人なら誰でも簡単に解るのである。(ただし、逆に日本人は『ソ連軍対日参戦で戦争が終わって大勢の日本人が助かった』など死んでも事実を認めたくない)
★注、
現在は、ソ連軍参戦と日本の無条件降伏を関連付けて論じている有識者は日本国では誰も居ないが、その原因とは『天皇の御聖断』神話では無くて、アメリカの振りまいた『原爆神話』に惑わされた結果だった。
その意味では軍事的には何の意味も無かったヒロシマナガサキの原子爆弾投下ですが、逆に政治宣伝や情報操作では絶大な威力を持っていたのである。(宣伝・広報など原子爆弾が持つ情報操作の威力は絶大で、第二次世界大戦から5年後の朝鮮戦争ではアメリカ軍による原爆使用のうわさが広がった結果、少しでも安全な南へ南えと人々は我先に逃げ出している)



駐日ロシア連邦大使館‏認証済みアカウント @RusEmbassyJ 0:16 - 2019年8月19日

 #ラブロフ外相:ソ日共同宣言の第9条では、日本への友好的対応および日本国民の利益に鑑み、ソ連は平和条約締結後には善意の証として日本に対して歯舞と色丹の2島を引き渡す、と定めている。あくまでも平和条約締結後
、ということだ。

ソ連消滅後、ロシアは他の義務同様この義務についても追認している。 
全文🔗https://bit.ly/2Z1KHy2

★注、
日本国首相であるデンデン安倍晋三は『ポツダム宣言を詳らかに読んでいない』と志位和夫日本共産党委員長に平気で国会答弁で答えている大馬鹿者なのですが、我が日本国では政界最左翼で高偏差値の知的エリート集団である共産党でも1956年の日ソ共同宣言をまともに読んでいないらしいのですから、何とも情けないと言うか、非常に恥ずかしい呆れた話である。


<転載終了>