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国語って名前で大丈夫なのか

2019年09月16日 | 信じて見えてくるもの


日本語を日本人に教える意味は何?国語でできるのか?


三年後、高校国語の教科書が大幅に変わるらしい。友人の話によると、今まで、現代文と古典(漢文・古文)という大きな分類からどうも変化があるらしい。

言語文化、古典探求、実用国語、文学国語、とかいって細かく分かれるらしい。

契約書、新聞の記事、裁判の文章等の日本語、評論文というものを大きく編集した教科書と、小説や詩歌に特化した教科書、古典の教科書と分かれるようである。そして、文学が選択となる様相を呈している。そこで、

「こころ」「羅生門」「山月記」「舞姫」といった定番小説教材が消えそうな雰囲気なのである。で、

行間が読めない若者が増える。文学を高校生に教えなくてよいのか、云々と喧しい。


1)現代小説・現代詩歌は本来芸術の領域なのではないか
2)「国語」という教科名は一体何なのか
3)国際学力到達度テストで求められる読解力をつけるためにどうするのか
4)日本の大学進学への選抜方法の制度改革はどうなっているのか
5)また 4)と連動した学習指導要領の改訂なのか

国語教師をやっている友人のA氏はこう言う

「小説や短歌、俳句。特に現代のものは、完全に芸術の領域。授業でも、本来現代物に教師サイドから”解釈”をしたところで、それが何なんだろう。期末テストなどを作成するときにいつも疑問に感じる。江戸時代から平安といった昔の作品はまだ可能だが、村上春樹の小説をテスト問題にしたところで、、、ねぇ。授業では生徒に実際に短歌や小説を作らせている」

私は非常に納得がゆくのである。一方でB氏

「名作を教えなくなってしまったら、若者はいつ何処でこういった名作に触れるのだろうか。契約書の文章とかAIに委せればよい。著名な内容の深い文芸に触れさせることこそ国語教育の根幹だ」

さて、皆様はどうお感じになりますか。

私は、そもそも、「国語」という教科名に違和感を持たずにこの議論をしている人々の国際感覚に疑問がある。戦後、国史はなんとか日本史に変更されたが、国際バカレロアや国際基準で教育をとらえている高校以外はみんな「国語科」だ。未だに「体育教官室」といって自分達のスタッフルームを「教官室」と呼んで違和感を抱かない日本人と同じ神経である。もう一度日本語を教えるという観点に立ってみて欲しい。日本語を日本人に教える意味は何?

私の友人のC君は

「僕は外国人に、何の先生ですか、と聞かれていつも困るんだ。だって、国語ってのをうまく翻訳できないのでね。だから、japanese languege and litterture teacher って答えるんだ。国語なんて呼び方わさ、俺達日本人は何時までたっても、ガラパゴス・井の中の蛙だよんっていってるみたいじゃん」

と言っている。道徳も教えるらしい。本来日本社会が成熟していれば、地域宗教が子どもに教える領域だ。それを学校でやるなんてもう絶望以外に何もない。







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