クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

笠松歴訪 H-31- 1-28

2019-01-29 15:22:35 | 前橋・伊勢崎・桐生・太田方面
先日、たかたかさんのブログで伊勢崎の「連取(ツナトリ)の松」記事を見て
そのスケールの大きさにビックリして題材をそっくり戴き爺イも見物。
日頃は家族の状況に制約されるが月曜は4時間の余裕があるので
某所に送り届けてから迎えまでの時間で済ませようと伊勢崎へ超特急。

高崎駅東口からR-354を東進、玉村・福島を過ぎて「田中町南」で
r-104に乗り換えて左折で北上「田中十字路」で今度はr-24を右折、
ローソンのある二つ目信号を左折して直ぐに右への脇道に入れば
僅かの距離でこんな石柱「天神社老松入口」とあり狭いスペースに
駐車。



すぐそばに古そうな石の鳥居、



薄汚れた掲額には「飯玉大明神」。
アレあれ、ここは「菅原神社」の筈だかと訝しんだがよく考えたら
事前に読んだ資料には「1907年に飯玉神社合祀」とあるからそちらの
鳥居を移設したのかな?



どうも裏手に当たる位置から入っているらしいと感じたが
右手に見えてきた大笠松を横目に見ながら取り敢えず社殿に向かう。
社殿裏には庚申塔や石仏、末社のものらしい石宮などが無造作に
置かれているし、社殿も相当に傷んでいる。



社殿はこんな感じ。



中を覗くと「管神社」の文字が見えた。



一寸参拝してから目の前の笠松を眺めるが見る位置が低いので
資料画像の様には全体が分からない。



それではと松の枝の広がりの下を通りながらその巨大さを実感。
参道の様な雰囲気の所を外側に向かって反対側に出て表から一眺め。

連取の松



気が付いたら近くに「村社 菅原神社」の石柱と



先ほどのより立派な石の鳥居。掲額は高い位置でしかも相当に
汚れていて殆ど読めないが多分「菅原神社」? こちらが表参道かな。



近くに釈迦如来像と本尊が刻まれた二十二夜塔。



芭蕉句碑「松杉を ほめてや 風の かをる音」などを
見てから隣の旧光福寺境内に植えられている「シンマツ」を
見に行く。



南の台地から一眺め、1910年に植えられたと云うから推定樹齢が
300年を超す本尊に比べれば規模はやや小さいが豪快さはある。



大体の様子。
連取のシンマツ


見ている内に何となく地元の方と一緒になりここに纏わる
昔からの伝承を拝聴。本人も廃寺の原因になった光福寺の
火災は三歳の時だったが記憶にあると云うから爺イより
年上かも知れなかった。別れ際にこれに似たのが高崎の
萩原町にあるから見た方が良いと勧められたので即実行に移る。


往路の終盤で使ったr-24をそのまま西進、r-13に乗り換えて
北上し京目信号で今度はr-27で少し東に戻れば萩原町信号,
左折すると目の前に道標。



簡単に駐車場から現地へ。眺めはこんな具合で広い個人住宅の
庭一杯に笠松が広がっていて見事。



先程と同じように中に入って巨大さを実感するが推定樹齢が
450年と云われるとさっきの300年との比較でやや?。
だが、思いがけずに短時間で三つの笠松を見学出来て満足。
関係する故事来歴諸説はネットでも氾濫してしているのでそれらは
後日纏めて蛇足として追記し個人的な備忘録とする積り。

萩原の大笠松


余計な一言
連取・菅原神社の祭神はその名の通り「菅原道真(845-903)。
醍醐天皇時代の右大臣だったが藤原時平(871-909)の讒言で
大宰府に左遷され現地で死去。死後に名誉回復され
「天満大自在天神」の神号追諡。「天満宮」「天神様」の元。

この神社は1319年(後醍醐天皇・北条高時の時代)に北野天満宮の
分霊を勧請して「天神社」が創建、1728年(徳川吉宗の時代)に
「正一位天満宮」、1851年(ペリー来航二年前)現在の社殿完成、
1874年(明治7年)に村社。1907年(明治40年)に飯玉神社他を
合祀して「菅原神社」。

「連取の松」は群馬県伊勢崎市連取町菅原神社の拝殿正面にある
クロマツの老松で樹高5m、目通り4m、東西約35m、南北約26m。
1717年(大岡忠相活躍時代)に地元支配の飯島氏が隣村・韮塚に
あったものを社殿正面に移植。92年後の記録には既に「高さ一丈、
太さ8尺枝張り25間四方の老之松として版画になっている。
毎年一回神社の氏子たちによって整備がされているので
支えの棚の結び縄が新品同様。

「シンマツ」と称される二代目は廃寺になっている光福寺の広大な
敷地内に1910年(明治43年)に移植されたものなので枝の張りは
堂々としているが樹幹は若々しい。光福寺とこの菅原神社は別当寺と
鎮護社との関係にあったらしい。

萩原の大笠松は由来によると「かつて前橋城主酒井雅楽頭が秘蔵して
いたマツの鉢植えを、現在の所有者の先祖が拝領し、庭に下ろしたと
伝えているという。松の生長につれ、庭が狭くなると、マツを切らずに
建物を動かして、マツに場所を譲り現在までに3回、居宅を移動した
という。
所で「酒井雅楽頭」は歴代襲名だから、酒井家が9代150年間
(1601年から1749年)にわたって前橋藩主を務めたうち、
何時のことやら良く分からないが樹齢は400年と云われている。
しかし,連取の笠松が330年とすると樹幹の貫禄からしてもっと
若いのでは?とは爺イの直感。


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4 コメント

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こんばんわ (たか)
2019-01-29 18:04:36
私も偶然、見つけた連取の松でしたがビックリ仰天の松でしたね。
私のブログを見て下さって早速、行かれたとは・・・有難うございます。
高崎にも笠松が有るとは知りませんでした。
今度は私の方が教えて頂きました。
何時か行ってみたいものです。
笠松 (爺イ)
2019-01-30 05:58:21
先日のオールドノリタケに続いて再び
後追いさせて頂きました。
最近は自力の思考力が低下して
題材は殆ど他力本願となってしまっているので
ご容赦願います。
Unknown (Taym)
2019-02-02 14:09:45
こんにちは。
最近日本の様々なとこに行きたいと思っていて
ブログを読ませてもらい参考になりました。
Unknown (爺イ)
2019-02-02 18:57:07
taymさん
コメント有難うございます。「からだ調整舘」を
興味深く拝見しました。貴重な資料の紹介感謝します。

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