クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

徳明園 2020 晩秋

2020-11-27 10:38:41 | 伝説・史跡探訪
前回投稿から既に10日以上を無為に過ごす羽目になった。
一寸した不注意で二か月前に買った車が廃車の憂き目。
すぐ次を手配したが納車は12月半ばと言われ本日漸く
届いた代車で活動再開。

空白の日々の内に本年の紅葉はもう終わってしまったが
唯一、平場に近い石原の徳明園に望みを託して訪問。
現地では観光バスの台湾人の観光客の方々を含めて
未だ観客は多かったが危惧した通り最盛期は終わって
いたので園内見学に重点を置き紅葉は添え物扱いにした。

先ず、浦島の池を反時計回りで周遊。
最初に出会うのは洞窟観音の観音像を彫像した高橋楽山
の第一号作品とされる観音像。




直ぐ先で三途の川に見立てた細流を渡り洞窟を潜ると
左に何やら重厚な石碑。下部が土に埋もれ読み取りが
出来なかったが館員さんの協力で読み取れた。
「吉は逆になりけり 仏笑わず 鬼笑う」だった。
つまり三途の川を渡って極楽から地獄へ来たと
云う事らしい。



右手の斜面を見ると「笑う閻魔と笑う鬼」の石像。
閻魔は瓶と酒杯を持っているから酒を飲んでご機嫌な
様子、片や鬼は何も持たずに法界定印のような手組。
昔、社員教育の一環でやらされた座禅の時も
こんな形を作った記憶がある。若しかするとこの笑顔は
洞窟観音の完成を喜んでいるのかな?



少し先に一寸きつい顔をした「水天」の像。
水天とは神水の神で竜を支配しているから
水脈の無いこの地の水確保祈願が込められているのか?



趣き変わって高崎の誇る村上鬼城(1865-1938)の句碑。
「傘(からかさ)に いつか月夜や 時鳥」
鬼城の旧宅が鞘町にあったころ ここの創建者・
山田徳蔵氏(1885-1964)と親交があったご縁とか。



もう一基の句碑も並列してあるがこちらは一般市民の
寄贈らしい。「瀞に散り 巌にちりて 谷紅葉」



次は柵によって近寄れず今まで理解できなかった「蛙石」
碑文が小さく遠距離なので帰宅後に拡大して漸く
文字が読み取れた。「人生は一朝の夢 徳明居士」だった。
人の栄華は儚いということのたとえだが元になる
「槿花一朝の夢」については難しい議論があるので
此方をご参考に
蛙は何処にいるのかと文字近辺を探しても見つからない。
岩の頂部に居るから。



それにしてもこの岩の造りはどう見ても人面岩に
作ってあるとしか見えない。ほら こんな感じで



丘を降りてくると「苔の庭」、湿度確保のために
常時霧を発生させている。



石庭に向かう途中に「アオバズク」の木彫り。
この庭園にはフクロウの類が照明に集まる
昆虫を狙って屡姿を現すそうだ。



石庭前。
本来石庭とは京都の龍安寺庭園のみの別称なのだが、
近年では石組を主体とした枯山水庭園を広くさすように
なっているからこう呼称しても良いらしい。



ぐるっと回って浦島の池、楽山傑作のひとつとされる
浦島太郎像の他に鶴と蛙の像がある。



山手に向かう途中に石の亀。角度を選ばないと
亀とは見えない。



斜面には山田徳蔵氏の現役の姿と称する石像。



近くにはこれを含めて三体の人物像。現役姿に
加えて晩年の姿と未来の姿が揃っている。
傑作なのは髑髏を持った未来の姿で間違いなく
一休さんの「目出度い髑髏」の逸話を現したものだ。
その逸話とは一休さんが正月元日の朝、京都の家々
の門口に髑髏をさし入れては、
「目が出てしまって穴だけ残っているのを『目出た
い』と言って回ったとの話だ。



更に山田徳蔵氏の洒落っ気はこの碑文。
「人間万事屁の如し プうと云字は仏成けり
徳明道人」



以上で一巡は終了、途中で撮った紅葉はこんな程度。
徳明園 2020 晩秋


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