クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

フラワーハイランド寒紅梅 H-31- 1-17

2019-01-17 18:57:14 | 安中・松井田
先日、ネットで「上毛新聞動画ニュース」にフラワーハイランドの
寒紅梅が開花との記事があったので一寸覗き見。ここの「極早咲き、
紅色の八重咲き」と称される寒紅梅は同園内の蝋梅と共に3月下旬
近くまで咲き続けていて三月定番の白梅とのコラボとなるので
去年の訪問は三月中旬だった。

勿論、普通の紅梅は三月になれば白梅と同時期に榛名梅林でも
箕郷梅林でも豪華な姿を見せるが八重ではない。
下の写真は去年の榛名梅林での一重の紅梅画像。



R-18を西進して安中に向かう。「城下」で右折してr-211(安中榛名湖線)に
乗り換えて九十九川を渡り暫くで今度は秋間川を跨いでr-215をひたすら
進む。新幹線の安中榛名駅入口を過ぎ二つのY字分岐を何れも右手に
直進すると一寸した広場風の所にこんな錆びついたバス停があり終点の
回転場所らしい。
バス会社名は「アークバス」と聞きなれない。帰宅後に調べたら安中市の
ボルテックスセイグン(旧・西群運送)という、貨物自動車運送事業を
営む会社が親会社で旧来のバス会社が撤退した路線を引き継いだ所謂
代替路線の一つで碓氷病院・秋間中関間を一日6往復してショッピングや
通院など地域生活者の足として不可欠な役割を果たしているらしい。



その広場の車道側にハイランドの目立つ道標、右への細道で相当な急勾配を
登ると駐車場。



入園料金500円也を払って山の斜面に造成された15000坪という広大な
園内の遊歩道を歩く。周囲を見渡すと思わずシマッタと口に出して
しまうほどの時期尚早。園内600本との公称の寒桜はほんの咲き始め。
爺イの旧式コンデジでは殆ど写真は無理とはおもったが運動不足解消の
ハイキングと思って勾配のある園内をグルグル歩き回った。
で、搔き集めて作ったyoutube。三月にリベンジしよう。

フラワーハイランド寒紅梅



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蛇足 だそく ダソク

信号機標識「城下」は現在の地名にないので爺イの悪癖の詮索開始。

元々安中城は1559年に安中忠政によって築かれたと云われる。
その数年間から西上野に侵攻の気配を見せる武田信玄に備えるため、
忠政は安中城を築いて嫡子忠成を置き、自身は松井田城を
改修して籠った。そして1559年頃より武田信玄が西上野に侵攻を開始
長野業政を中心とする上州勢は粘りの防戦を続けたが
1564年に安中城主の嫡子忠成は武田氏に降伏、松井田も忠政切腹で開城。
忠成は武田旗下となったが、1575年の長篠の合戦に武田軍として
従軍し、戦史に残る奮闘をするも忠成以下尽く討死して安中へ帰る
ものはなく残ったものも帰農したため廃城となって荒廃していた。

時代は下って
徳川譜代筆頭の井伊直政は家康の関東入部にあたり、江戸北辺の
押さえとして箕輪12万石(現高崎市箕郷町)に入封し、後に高崎へ
城を移すがこの安中も井伊領。1601年、井伊直政は
関ヶ原の勲功により近江佐和山(彦根)15万石を与えられたが、
この安中領3万石も据え置かれて計18万石で佐和山へ移つている。
直政は佐和山入封後まもなく没し、子の直勝が継いで彦根城を
完成させて佐和山を「彦根」と改めた。しかし残念なことにこの直勝は
病弱だった為、後の大坂の陣への参陣もかなわず、代わって弟直孝が
参陣。結果として直勝は彦根藩の相続も許されず、2代藩主は弟直孝が
継ぐ事となり、直勝は一度なった藩主の籍を抹消され、1614年に
領地に安中城を再構築し安中藩を立藩したとされるが当初は陣屋程度の
規模で、1702年に内藤政森が入封してから城の体裁が整えられた。

安中井伊家は上州の防衛と街道の警備を担うとともに、城下町や
領内の中山道宿場町を整備していく。安中城下に設けられた
安中宿は前後の上野尻村・下野尻村・谷津村を同化し、宿場と
街道集落が一体になった長い町並みを形成した。これら
4つの町村を総称して「安中」もしくは「城下四町」と呼んだと
いうのが「城下」の名の元だろうが信号機の「城下」がこれを
汲んだものか?あるいは安中城址の下にあるからという単純なものかは
分からないが「城下」という地名が現在無いことは確かである。


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