Eos5D写真三昧 格安の海外旅行記と国内旅行のすすめ

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シェイクスピアの4大悲劇の一つ オセロー

2020年10月12日 13時44分00秒 | 世間話
ボードゲームのオセロの名前の元となったシェイクスピアの文学作品オセロー。
私、不惑の歳をこえてからも、これまでシェイクスピアの名作を読んでこなかった。
「まるでロミオとジュリエットだな」というように、ある出来事を名作に喩えて会話をすることがあるが、実はそのロミオとジュリエットすら読んでいない。ドラマやアニメなどで引用されたり、パロディに使われたりしているので、我々は実際に読んでもいない作品についても、なんとなく話の筋が分かっていて、しまいには会話の喩えにまで使ってしまうほどである。
つまり、よく知らないモノを喩えに使って話をしているワケで、これは内容の無い会話をしているのと本質的には同じである。

ところで文学というのは一般的には芸術と同じように「高尚」ということにされている。
これも先ほどの「読んでもいないのに」という話と同じく、よくわからないが難解でとっつきにくいモノという曖昧なイメージの会話であり、その後に続く言葉は「私には難しいからよくわからない」と敬遠するための方便として使われる。つまり、文学は高尚で...と話しをする人は、社交辞令で興味のない話を敬遠しているというワケである。なので、いかに文学が高尚なのかをその相手に語ったところで、それは野暮というものだである。相手はそういうことを期待しているわけではない。

空気を読むというのはなかなか難しい。我々は時々、相手の言う言葉をまに受けてしまって、そのセリフの真意を測りそこなって、迷惑な長広舌を披露してたりする。

他人と会話をする時は、言葉と空気の双方を読まねばならぬが、自分の内なる心と対話をするときはどうだろう?
やはり同様に字義通りの解釈と空気はあるだろう。やりたくないモノについては高尚という言葉で片付けて逃げるということも自分自身はしたりする。悪くすると、あんなものは、と蔑んだりして逃げる。
  共通しているのはどちらも、たいしてやってみないのに、というものだ。よしんばやってみたとしても、自分には合わないとか理解できないという対象に対してはそれをする。
  ブランドモノで着飾った人を見て、あんなモノ!、ということはできるが、やってみたとしてもその意見が変わらなかったとして、そこで言う「あんなモノ」というセリフにはいったいどういう意味があるのか?
  ブランドモノは人気がある。私には全く興味がないとしても、それに興味を持つ人々は大勢いる。つまりブランドには一般的には価値があることは認めなければならない。私が認めなかろうが一般的にはその価値は存在するのである。単に私が「あんなモノ」と断じて無理解なだけにすぎない。

つまり「高尚」という言葉と「あんなモノ」という言葉に潜む意味は、空気を読む意味において、本質的には同じことを言っている。ただ、違う点があるとすれば字義であり、かたや無理解なものに対して「高尚」とまつり上げ、かたや「あんなモノ」と貶める。
どちらが大人の対応かは火を見るよりも明らかである。
なので他人に興味のない話題について、その人が「それは高尚だからちょっとぉ、、、」という人というのは大人である。自分の理解しえぬことも一般には価値があるということを知っており、それでかつそれを肯定的に認めるゆえに、高尚と言ってくれているのである。
私も知らないことに出会ったときに、そのような対応ができる大人ではありたい。全然できてませんけど。。。


さて、高尚ついでにもう一つ。
現代の小説と古典の名作があったとして、後者は高尚とよく言われるが、前者はなかなかその恩恵に与れない。それはまるで、今売上を上げている商店と、老舗の商店のようですらある。不朽の名作というが、不朽とは歳月をかけた結果として朽ちてないものを指す言葉なので、やはり時を超えても一般的な広く受け入れられるようなモノは、高尚という称号を受けやすいということだろう。

逆説的に考えるなら、失敗のないようなものを買おうと思ったら、老舗の店にいけばよい。失敗のない本を借りようと思えば古典を借りればよい、となる。
ただしそれは無難な、消極的態度とも言える。現代に売れている、あるいは流行っているモノは将来において高尚という称号を受けるかもしれないし、受けないとしてもその時その時点において、買い手に最高の喜びを与えるならば、それは無難である商品の選び方と比べれば、はるかに喜びは大きいものである。
  従って「高尚」という言葉に潜む意味というのものは、不朽ではあるが無難であり、それがすなわち自分にとって最大の喜びを与えてくれるものとは保証できないモノとも言える。

ただし「高尚」という称号を賜ったモノは、それが文学であれ、ブランドモノであれ、それが「高尚とされている事実によって」またはそれが「ブランドとされている事実によって」価値が高いという極めて逆説的な意味も持っている。
  つまり、ブランドモノはブランドだからいいモノというイメージ。高尚なものは高尚だからいいモノというイメージである。
   これは冒頭に書いたように、読んでもいないのに。とか、買ってもいないのに。持ってもいないのに。とかの話と同じである。そう、読んでもなく、持ってもいないにも関わらず、その高尚とかブランドという言葉がイメージとして燦然と輝き、それだけで価値になるという錯覚である。
  この錯覚は結構重要なのだ。なぜならシェイクスピアに話は戻るが、シェイクスピアはもはやブランドと同じ高尚なモノと一般的には認識されている。つまり、シェイクスピアの作品といわれるだけで価値が高いと錯覚している。
  この錯覚を持っている人が、いまだシェイクスピアの4大悲劇全てを読破していないとしよう。高尚でありたいと願う(錯覚する)私は、なぜかは知らねどシェイクスピアの4大悲劇を「読まなければ」という気にさせてくれるのである。
  つまり、錯覚によって能動的態度を私に取らせてくれているわけだ。この効能は認めなければならない。

冒頭で私は「高尚」という言葉は空気であり、そしていま錯覚ともかいた。しかし、錯覚によって私に能動的態度を取らせたことは現実である。
空虚な言葉や錯覚から、能動的行動という現実につながる奇妙。「称号」というものはそういう力のあるものだったりもする。

長い前置きだった。ここまでオセローのことは一言を触れていない。

もうご存知のように、オセローをどう読むか、どういう感想を持つかというのは、もはや共通したものはない。しかし、共通する錯覚は持ちたいという気持ちがある。それが優れた評論というものなのかもしれない。

ここまで書いておいて、私はオセローの評論はせずに筆を置くのであった。

おわり


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