雑草軍団からラグビー日本一を目指し続けた軌跡 大学編連載第21弾! | ラグビーを楽しもう!  

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【昭和59年(1984年)シーズン】

昭和58年度シーズンは、平尾さん大八木さん、林さんのいる同志社の大学選手権2連覇で終了した。

悔しい思いをした、このシーズン。我々は気持ちを新たに、早坂新キャプテンの元、もう一度チャレンジし直しの年が始まった。この当時のシーズンは、皆さんオールドファンはご存知の通り、1月15日の日本選手権でシーズンの幕が降りる。同志社 VS 新日鉄釜石 それは二年続けてのカードになった。釜石にとっては、日本選手権5連覇が掛かった年であった。

松尾さん、森さん、洞口さん千田さんと、全日本メンバーを持つ新日鉄釜石は、同志社の挑戦を力で跳ね除け、5連覇を達成。まさに日本ラグビー史に偉大なる足跡を残している真っ最中であった。その当時の新日鉄の監督が、法政OBの中西監督だったので、法政はたびたび釜石を訪れ、日本一メンバーと一緒に練習し、指導を受けた。

 

そんな新日鉄釜石と法政大学の関係から、気仙沼での親善試合が開催される事になって、春シーズンに日本一のメンバーと対戦することになったのだ。私が三年になったときの春シーズンのことである。単独大学で親善試合にせよ、日本一の社会人チームと対戦し、その強さを肌で感じられる経験は貴重な経験となった。

 

結果は当然のことながら、釜石の勝利。でも法政も2トライは返すことが出来き、45-12。レジェンド達と対戦できたことは本当にいい経験だった。その中で釜石と言うチー

ムの底力を感じたプレーが私の中に鮮明に残っているのでここで紹介したいと思う。

 

後半のプレーのなかで、法政がチャンスを迎え右に展開し、第二センターの横に入ったフルバックのところで、釜石に止められた。そこでポイントになって、いい球が10mライン付近で法政に出てきた。右サイドにまだ走れるスペースがあったので、左から移動してきた法政スタンドオフ村田から、フリーでボールを受け取ることが出来た私は、サイドを守っていた釜石のフランカーを振り切り右サイドタッチラインギリギリにゲイン突破することが出来た。そのまま突っ走りあと5メートルでトライと言う所まで来たとき、見えない角度から私に襲い掛かるタックルの手が伸びた。次の瞬間タッチの外にそのタックラーと共に飛び出してしまった。

 

タックラーは日本代表ナンバーエイト千田選手だった。我々学生相手に、一切手を抜かない、全日本の選手の全力プレー。本当に凄いなと思った瞬間だった。

 

【ルーツ校慶応義塾大学】

一本目ウイングとして定着目指した、昭和 59 年度。春シーズンでは、普段戦わない相手と試合をするが、その中の相手に慶應義塾大学がある。後に公式戦でいちもつポロリをフォーカスされ有名人になってしまった、村井選手や、キャプテンの全日本松永選手がいた代である。

 

当時の法政は、合宿所が元住吉だったので、日吉の慶応とは隣り合わせ。日程が合えば、定期的にゲームを行った。慶應義塾大学のその頃は、フォワードが強く、徹底したアップアンドアンダーでフォワードをラッシュさせる戦法が多かった。

私はこのシーズンから、右から左ウイングへコンバートされ、11 番を背負う事になった。右ウイングには、目黒高校の準優勝メンバー、伊藤が入るようになった。左ウイングは、左足でのパントを、各種マスターする必要があり、練習もプラスアルファが必要だったが、なんとか定着できていた。

 

この時の試合は、法政のキャプテンでセンターの早坂さんと慶應のキャプテンでセンターの松永さんのキレの良いステップが目立った試合で、ほぼ互角の展開。大学選手権出場チームとも、充分に戦える事を証明できた試合だった。残念ながら試合結果のデータは無いが、良い試合内容で引き上げたのを覚えている。

 

松永さんは、私のことなど当時知らなかったが、2009 年にドイツから私が帰国した後に、私の当時の会社に松永さんが訪問する事がわかり、和歌山のオフィスでお会いした。当時のスリムな感じとは違い、貫禄の出たビジネスマンになられていたが、共通の知人も多く、短い時間であったが、ラグビーの話をさせて頂き、同じ時を過ごしたラガーとして楽しく話をさせて頂いた。こういうところが、ラグビーの良いところである。

 

 

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