蒸溜所で、鐘が鳴ります。
置き忘れた鐘・・・いえ、置いてきた鐘が、鳴ります。
観光で訪れた方たちは、誰も気づいていません。
本当に小さな・・・微かな鐘の音。
なのに、八兵衛さんまでも、神妙な顔で見つめています。
☆☆☆
木陰から心配そうに見つめている瞳があります。
さっちゃんは、お母さんの背中を一生懸命つかんでいます。
命綱のように、さっちゃんは、離すまいと一生懸命です。
怖くて震えています。
とてもとても・・・長い時間が過ぎていきます。
いいえ、時間軸では決して長くはありません。
ただ・・・無限の刻があります。
さっちゃんは、蒸溜所のお土産屋さんで、おばあちゃんにと思って買ったハイチュウを握りしめています。
これを離したら、大好きなおばあちゃんが遠くへ行ってしまう・・・心がそう告げるのです。
小さな手で、一生懸命、離すまいとがんばっています。
屈強な大人でも、幼い子どもでも、誰もが、見守ることしかできない刻があります。
☆☆☆
やがて、さっちゃんの小さな手から、ハイチュウが床におちます。
さっちゃんの小さな瞳からは、大きな雫がこぼれおちます。
人はそれを、“命の水”と呼びます。
さっちゃんは、「さち子」という名が嫌いでした。
意地悪な大人は、きまってこう言うのです。
「へえ~、“幸子”っていうんだ。意外と、幸子っていう人は幸が薄いんだよな~」
そんなとき、さっちゃんのお母さんは、いつもこう言うのです。
「“さち”は、ひらがななんですよ。」
意地悪な大人は、こうも言います。
「今どき、サチコという名前は珍しいね。その古臭さは、昭和だね。」
そんなとき、さっちゃんのお母さんは、いつもこう言うのです。
「古くても、新しくても、その名前には、大切な想いが込められているものです。」
さっちゃんは、いつしか、この名前が好きになりました。
そして、その“想い”が静かに終止符をうつとき、さっちゃんの時が止まります。
さっちゃんのお母さんは、さっちゃんの手を握り、立ち尽くしています。
やがて・・・
誰もいない部屋。
誰も通ることのない廊下。
床に点々と続く雫の跡。
天使が、「可愛らしいわね」と褒められたお尻をふりふりしながら、雫を拾い集めていったのです。
Written by Z