2020年02月25日
「障害」か「障がい」か
前回の入院生活を終えて退院したはいいものの、その後1週間後の通院で検査上再び悪化しており、その三日後に再入院となってしまいました。
今回も肺炎でございます。
ちょっと多すぎで困る・・・もはや何をどうしたらいいかわからんね(;^ω^)
個室隔離状態なので出歩く訳にも行かないから、入院中は暇でテレビ見るか本を読むくらいしかやることが無い。
あとは寝るだけ( ̄▽ ̄;)
んで、結局色々と無駄に考えることが多くなるわけだけど、ふと本とか読んでたら「障害」と言う文字が目に入って、そこから妄想が膨らんだ。
今回は、タイトルにあるように、「障害」か「障がい」か、その表記の意義について、珍しく真面目に私見を書いてみよう(笑)
医療の現場とかで時々こういった議論を聞くことがあります。
「障害者」か「障がい者」か。つまり、「害」の字を使うか使わないかということですね。
「障害者」と言う言葉に嫌悪を示す人は確かにいると思います。
僕も、もしそれが、身体に不自由がある者、日常生活や社会生活を送る上で支障がある者、という、その人個人を示す意味で使われる「障害者」なのであれば、そこに「害」という字があることは、あまり好ましくないのかなとは思います。
言われる側にとっても、「害」という字がもつマイナスイメージも手伝って、あたかも「害のある者」「害を及ぼす者」のように思われてしまうのではないか、という不快感や気持ちの悪さがあると思います。
そういう意味で使われる、もしくは受け取られるのならば、「障害者」という表記はよろしくないと思います。
なので、この「害」の字をひらがな表記にした「障がい者」と言うようにしよう。という流れがあるようです。
ただ、これにも賛否両論あるようですが、僕自身もこの表記を変えることに果たしてどれだけの意味、効果があるのかなとちょっと疑問に思うところはあります。
まずひとつは、以前にも少しここで呟いたかもしれませんが、「障害者」と言うのは、僕の認識としては、日常生活あるいは社会生活を送る上で障害を受けている者、というイメージに近いからです。
何らかの支障を受けている者。
被害を被っている者。
つまり、害はその人個人にある訳ではなくて、その人を取り巻く環境の方にあるんだという考えです。
分かりやすく言うなら、例えば車椅子の人がいて、その人が駅の階段を登りたい時に、設備が整っていなくて階段を登れないとすれば、車椅子の人に障害があるのではなく、階段しかないあるいは設備がない環境側に問題があるわけで、車椅子の人はその環境により支障を受けている側と言えると思います。
未舗装の道路にしてもそうですし、道路の段差にしてもそうです。
あるいは、トイレも身体の不自由な人にとっては大変重要な問題です。
出かけた先のトイレが狭くて車椅子が入れないとか、ストーマを利用出来る環境が整っていないとか。
片麻痺の人なら麻痺則にしかトイレットペーパーが設置されていなくて上手く使えないとか、手すりがなくて上手く立ったり方向転換が出来ないとか。
少し話が飛躍しますが、LGBTなどの人もいますから、そもそもトイレどっち入ったらいいのかとかどう使うかとか、凄く悩ましいというか、本人にしてみれば屈辱的な状況もある訳ですよね。
これはトイレに限らず温泉とかもそうでしょうね。
まぁこの場合は悪いことばかりじゃない場合もありそうですが・・(;^ω^)
とまぁこんな風に、障害者を障害者たらしめているものはむしろ社会や環境との関係性の中にあるわけで、その人個人の問題ではなく、社会や環境の方に問題があるよね、障害があるよね、という認識の仕方です。
もうひとつ思うのは、この表記の違いの意味を、全ての人が理解していなければなんの意味もないんじゃないの?と思うわけです。
例えば認知症は、かつて痴呆症と呼ばれていました。
統合失調症は、かつて精神分裂病と呼ばれていました。
痴呆症は「ぼけ」とか「あほ」、「おろか」など侮蔑的な意味合いを含んでいるからということで名称が変更されたという経緯があります。
また、精神分裂病の方は、「精神が分裂する病気」というような、あたかも人格を否定するような誤解や偏見を与えたり、当事者やその家族に対しても苦痛を与えたり、社会復帰を妨げる危険性があるということで名称が変更された経緯があります。
名称を変更したことは良いんですが、じゃあそれ以前に抱かれていた病気に対するイメージ、印象、偏見があったとして、名称を変更した経緯や理由をみんなが理解していなければ、ただ呼び方が変わっただけであって、名称変更後の病気に対してのイメージ、印象、偏見等々は何も変わらないんじゃないか、という思いがあるわけです。
何故名称を変更しなければならなかったのか、どういう理由で名称が変更されたのか、その病気の正確な情報や理解などなど、病気の表記の仕方の問題ではなくて、我々一人一人の意識の問題なんじゃないかと思うわけですね。
僕個人としてはこのようなことを思う部分があるので、正直「害」を「がい」と表記を変えただけではあまり意味が無いんじゃないかなとは思います。
ただ、「害」の字に対して不快感を覚えている方も実際にはいると思うので、その事をしっかりと理解を示した上で使うのか、あるいは不快な思いを抱く人に配慮して表記を変えるのか検討する必要があるのかなと思います。
個人的には先に述べたように、個人を指す場合は「障がい者」でも良いかなと言う気がしますが、基本的には社会的に障害を被っている者という認識なので、「障害者」という表記で良いのかなと思っています。
どちらにしても、不快に思う人がいることは確かなので、使い分けや理解を求める等々の心遣いは必要かなと思います。
その関連で、話の流れでLGBTの話題がちょろっと出たのでそれについてもひとつ。
LGBTは最近耳にする機会が多くなりましたね。
レズビアン、ゲイ、バイ・セクシャル、トランスジェンダーの頭文字を取ってLGBTです。
心身共に女性である人が、女性を愛する女性同性愛者。いわゆるレズビアン。
心身共に男性である人が、男性を愛する男性同性愛者。いわゆるゲイ。
心身共に男性、又は女性である人が、男性も女性も愛する両性愛者。いわゆるバイ・セクシャル。
そして心は女性だけど身体は男性、またはその逆で心は男性で、身体は女性など、心と身体の性別に差異があるトランスジェンダー。
性同一性障害は、トランスジェンダーの狭義の意味としては当てはまりますが、正確には違いがあるとの事。
自分が認識している自身の性別を「性自認」といいます。
この性自認は、戸籍上の性別は関係なく、自分は男だ、自分は女だ、のように自分の性別を自身でどのように認識しているかということになります。
そして、性自認には男性女性だけではなく、男性と女性の中間的な認識をしている人や、男性でも女性でもあると認識している人、あるいはそのどちらでもないと認識している人など、様々な性自認の形があります。
一方で性染色体(XX型なら女性、XY型なら男性)や外性器、内性器、性ホルモンなど、身体的構造における性を示すものを「身体的性」といいます。
戸籍上と同じものと解釈されることが多いです。
この性自認と身体的性というものを念頭に置いた上で考えると、トランスジェンダーは性自認と身体的性、つまり心と身体の性別が一致しない状態です。
けれど、それを外科的手術によって一致させたいとは考えていない人のことを言うそうです。
それに対して性同一性障害は、医学的な疾患名であり、心と身体が一致してないということは同じですが、トランスジェンダーの人と違うのは、心と身体の不一致を、一致させたいと思っている人だということです。
性同一性障害は医学的な疾患名ですから、医師により診断を受ける必要があります。
その上で性転換手術や戸籍の変更などが可能になります。
なので、性同一性障害は狭義の意味でトランスジェンダーに含まれますが、正確には異なるということです。
トランスジェンダーをより広義の意味捉えると、先程の性自認のように、男性女性という認識だけでなく、その中間やその両方、もしくはそのどちらでもない性自認の人も含みますし、男性が女装したり女性が男装したり(見た目と性自認な一致してるが、身体的性とは不一致)といった人達も含みます。
またトランスジェンダーの枠からは外れますが、半陰陽と呼ばれる人達もいます。
半陰陽とは、医学的には性分化疾患といい、いわゆる男とはこういうもの。女とはこういうもの。という世間一般で捉えられる身体のつくりと、生まれつき一部異なる発達を遂げた身体の状態のものをいいます。
これは例えば、以前陸上選手で、南アフリカの選手だったかな?女性の選手がいました。
が、体つきや顔つきが何となく男性に近く、記録的にも大変優秀で世界陸上で金メダルかなんかを獲った人がいます。
この方は後に半陰陽とわかりました。
これは、先程の性自認も戸籍上の性別も女性ではありますが、検査の結果内部精巣があることが分かりました。
一方で子宮や卵巣が無いことが分かったようです。
精巣があるために、男性ホルモンが多く分泌されたことにより、体つきなどが男性的になったということです。
この半陰陽、つまり性分化疾患の方は結構いるようで、他にも精巣と卵巣両方を持っていたり、外性器を両方持っていたりという例もあるそうです。
このように、性ひとつとっても本当に多様性がある訳ですが、以前僕が読んだ本にこんなことが書いてありました。
「性同一性障害という障害は存在しない」
今の世の中、男とはこういうもの。女とはこういうもの。あるいはそうあるべき。と言う固定概念というのか、そういうもので溢れている気がしますね。
先程言ったように、性ひとつとってもこれだけ多様性があるのに、です。
確かにこういった人達はセクシャルマイノリティ(性的少数者)と言われ、全体の中では少ないのかも知れませんが、それでも確かに存在してますし、最近はタレントなどでもカミングアウトして、そういう立場として表に出ている人も沢山います。
心と身体の性が一致しない不快感に悩まされ続けながらもこれまで誰にも言えず苦しんできた人達は、実はもっともっと沢山いるんじゃないかと思います。
先の障害の話と繋がりますが、我々一人一人がこういったことをしっかりと認識し、勉強し、理解していくことが大切であると思います。
治すべきは、LGBTや性同一性障害と言われる人達ではなく、我々社会の方なんだ、と思うわけです。
恐らくこういう意味で、「性同一性障害という障害は存在しない」と言われるんじゃないでしょうか。
障害者は、あくまで社会的に不利益を被っている側の人達、という認識の立場に立てば、障害なのは個人の問題ではなく、我々一人一人の認識や社会の側なんだと思うわけで、だとすれば、そちら側を正すことが出来れば、「性同一性障害という障害は存在しない」と言うのと同じように、多くの障害者にとって、自分の置かれている状況はひとつの個性や特性、生き方としての多様性のひとつと捉えられるのではないかと感じたわけです。
社会的に不利益を被る状況が無くなるのであれば、例え生活する上で不便さは残ったとしても、もはやそれは障害ではなくなる可能性もあるのかなと、思うのでした。
文化や言語、国籍、年齢や性別、障害の有無等々に関わらず、誰にとっても利用しやすい、使いやすい、生活しやすい、そういうデザインのことをユニバーサルデザインといいます。
そういうのが徹底された世の中になれば、障害が障害という認識でなくていいものも多々あるのではないだろうかと思います。
まだまだまだまだ、まだまだまだまだ、そういう世の中とは程遠いと感じる今の世の中です。
今は生きづらいと感じる事がむしろ多い気がします。
当事者の声をもっと聞くべきですね。
聞いて、吸い上げるべきだと思います。
そして、我々ひとりひとりの自覚、認識、理解を深める必要があると強く感じます。
治すべき障害は、まずそこから!