マイペースで行こう

東村山市内のキリスト教会の牧師のブログです。更新も内容もマイペースですが、18年目に入りました。

今年のリトリート

2019-11-08 14:14:00 | 教会の風景
10月末には東村山聖書教会のリトリートを実施しました。
ちなみに、リトリートは「撤退」や「退却」を意味する語ですが、教会では「日常生活を離れて静まること」を指して用いることがあります。
私たちの教会では、昨年に続いて2回目の開催。
今年は台風19号の被害や影響で開催も危ぶまれたものの、お世話になる奥多摩の施設は無事だったため、快く迎えてくださいました。

私から見ても、今回は特にいくつかの点で有意義なひとときになったと喜んでいます。
たとえば、二人の方々に信仰に導かれた経緯や体験をお話しして頂きました。

今回これが実現したのは、事前の話し合いで提案されて、候補者となった方々も引き受けてくださったからです。
ささやかな積み重ねの中から「生まれてくる」ものがあるのだなぁと思いました。
慈しみ深い主の導きと備えとを感謝しています。



当日は天候にも恵まれて、自然の中で心身ともにリフレッシュする機会になりました。


さて、10月の礼拝で話した説教のあらすじも掲載しておきます。旧約聖書の講解は、サムエル記第一から続けています。

2019年10月 Ⅰサムエル記9-10章
説教題:『サウルとサムエルの出会い』
 最初の王が立てられるにあたり、聖書は『サウルとサムエルの出会い』の経緯を伝える。サウルの人物像については、ベニヤミン族に属する有力者の家庭に育ち、高身長の美しい若者だったという(9:1,2)。外見の印象の良さ自体は王に選ばれる条件ではないが(Ⅰサム16:7)、サウルもその後のダビデも、その容貌の良さについて言及がある(Ⅰサム16:12)。選ばれる条件とはならずとも、神は彼らに王の役目に資する風格を備えていたようだ。しかも、面識のない二人が出会うまでに、様々な出来事が折り重なる。サウルは父に頼まれ、いなくなったロバを探しに出かけたが(9:3)、一向に見つからない(9:4)。諦めかけたとき、同行していたしもべの提案で、預言者サムエルに相談することにした(9:5-8)。これらは偶然が重なったようにも見える。けれども、サムエルには、サウルの訪問を予告する主のことばがあった(9:16,17)。神はみこころのままに万事を用いる。私たちの人生に起こる出来事や出会いもまた、主のご計画が実現するために用いられる。(2019.10.13)

説教題:『主があなたに油を注がれた』
 サムエルはサウルに油を注ぎ、『主があなたに油を注がれた』と告げた(10:1)。この油注ぎは、彼をイスラエルの王に任命したことを意味する。そして、サウルがこの事態を受け入れられるよう、サムエルはしるしとなる出来事を告げた(10:2-6)。そのことばのとおりになれば、神がサムエルを通して語ったのだと確証され、サウルも認めることだろう。しかも、そのしるしには、「主の霊があなたの上に激しく下り」とも言われる(10:6)。この表現は士師記やサムエル記に見られ(士師14:6; Ⅰサム16:13等)、主がその人と親しく共にいるのを示す。サウルの場合で言えば、立派な容姿を備えていても、主が共におられなければ、王の務めをふさわしく果たせない。主の霊を受けて、「新しい人」、すなわち王の務めを果たす人に変えられる(10:6)。なお、この箇所を読むと、楽器の演奏や預言に注意を奪われそうだが、神の霊がもたらす新しさは、感情の高揚や目立った現象を伴うとは限らない。サウルがその場を立ち去ろうとしたとき、神は彼に「新しい心」を与えた(10:9)。今やすべての信者はキリストの贖いゆえに新しくされ、聖霊が内住し、共にいてくださる。聖霊は私たちに、キリストを証しする力を授けている(使徒1:9)。(2019.10.20)

すっかり長くなりました。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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