2019年08月30日
経済格差が、子どもの「脳の発達」に影響を与えるという厳しい現実
この十数年、経済格差の拡大が日本を覆う巨大な問題として注目されることが増えた。経済格差の問題点はいろいろ指摘できるだろうが、とりわけ子どもにとっての影響が大きい。たまたま生まれ育った環境が不利であると、子どもたちの発達は著しくネガティブな影響を受けてしまうからだ。その結果、彼ら・彼女らの未来が閉ざされることもある。
筆者は子どもの心の発達(発達心理学)の専門家として、子どものときに発達させる様々なスキルが、彼ら・彼女らの未来にどのようにつながるかに関心を持ってきた。
ここではそうした研究のなかから、筆者らが今年発表した研究の成果を紹介しよう。そこでの結論は、経済格差が子どもの「脳の発達」に影響を及ぼすというものである。以下では、なぜ経済格差が脳にまで影響を及ぼすのか、脳の発達への影響はその後の人生にどんなインパクトを持つのか、それを改善する方法はあるのか、といった点について考えてみたい。
さて、子どもの心の発達と聞いて、どのような学者が思いつくだろうか。スイスの心理学者、ジャン・ピアジェを思い出した人は多いかもしれない。
ピアジェおよびその後継者たちは、主に子どもの知的発達を調べてきた。子どもがいかにして知識を獲得するか、どのくらい記憶できるのか、いかにして推論するかといった問題である(なお、ピアジェの考えは現在多くの部分で誤りであることが明らかになっている)。これらの能力は、現代風に表現すれば「認知的スキル」と呼べるだろう。
一方、近年、教育経済学や教育社会学などで注目を集めるのが、認知的スキルと異なる「非認知スキル」だ。
非認知スキルは、経済学者ジェームズ・ヘックマンら一連の研究で脚光を浴びた。彼らの研究は、低所得家庭で育った子どもが幼児教育を受けることによって、幼児教育を受けなった子どもよりも、その後の年収や持ち家等の経済的な面で優れた結果を出すことを示した。この際、幼児教育は知能(IQ)などの認知的スキルにはあまり影響を与えなかったが、忍耐力や学業への真摯さなどの側面に影響を与えたと考えられ、これらが「非認知スキル」と呼ばれるようになった。
非認知という言葉があまりに漠然としているため、筆者も含めて心理学者は「社会情緒的スキル」という言葉のほうを好む。要は、自分や他人とうまく折り合いをつけるためのスキルだ。
ところが最近になって、認知的スキルでも非認知スキルでもない、あるスキルが世界中で注目を集めるようになった。それが「実行機能」というスキルである。非認知スキルの一つとされることもあったが、最近は独立したものとして扱われている。
実行機能。字面だけ見てもどのような能力かはわかりづらいが、簡単に言えば、目標に向かって自分をコントロールする力のことを指す。ダイエットという目標のために食べたいものをがまんする力や、夕食を作るという目標のためにある具材を切ったり別の具材を煮たりと柔軟に頭を切り替える力である。大事なのは、「目標を達成する」ために必要なスキルだということだ。
たとえば、実行機能を測る代表的なテストは以下のようなものだ。カードに色と形の2つの属性があり、子どもはあるときは一方のルール(たとえば色)、別のときは異なるルール(たとえば形)でカードを分類しなければならない。このテストは、物事を実行する際のルールを柔軟に切り替える能力を測定する。
このテストの結果、3歳の子どもはルールを柔軟に切り替えることができないが、5~6歳頃からルールを切り替えることができるようになる。つまり実行機能は、3歳から6歳頃にかけて大きく成長するのだ。
近年、子どもの実行機能が注目を集めているのは、子どものときの実行機能が、後の学力や友人関係、問題行動、および大人になったときの収入、社会的地位、健康、犯罪歴などと関連するためである。この点を世間に知らしめた「マシュマロテスト」の研究成果は現在では疑問視されているものの、その後ニュージーランドやイギリスなどの研究で信頼できる成果が出されている。実行機能の影響力はIQ以上だという研究結果もあるし、非認知スキルと比べて確実に測定できるという特徴もある。
実行機能は、子どもの未来の可能性を広げる能力といえるだろう。
このように人生にとって極めて重要な意味を持つ実行機能だが、良くも悪くも、子どもが育つ環境によって、その発達に影響が生じやすい。すなわち、家庭の経済格差が直撃するのがこのスキルなのだ。
あるアメリカの研究では、家庭の経済状態が子どものどのような側面での発達に影響を及ぼすかを調べた。その時に調べられたのが、子どもの視覚認知、空間認知、記憶力、言語能力、そしてくだんの実行機能である。
この研究の結果、視覚認知、空間認知、記憶力などの認知的スキルは、経済格差の影響をあまり受けなかった。一方で経済格差の影響を強く受けたのが、実行機能(と言語能力)であった。
なぜそれぞれのスキルごとに発達の差が出るのか。この点を考える上で重要なのが、認知的スキル/非認知スキルという区別の視点ではなく、「子どもの脳発達」という視点である。
脳と心の間に対応関係があることは、ここ数十年の神経科学が示してきた成果である。大雑把にいうと、視覚認知は「後頭葉」の一部が、空間認知は「頭頂葉」の一部が、記憶力は「側頭葉」の一部が関連する。そして、実行機能に関連するのは「前頭前野」である。
経済格差が実行機能を直撃する理由は、この前頭前野にある。動物実験などから、前頭前野の発達はストレスに対して極めて弱いことが示されている。生まれる前に母親が強いストレスを与えられたラットや、生まれてから強いストレスを与えられたラットは、前頭前野の発達が正常でない。
ストレスにも様々な種類があるが、ヒトの場合は、精神的なストレスを受けることが多いだろう。とりわけ貧困の家庭においては、そうではない家庭と比べて、子どもは生後半年頃から慢性的な精神的ストレスを抱えやすいことが知られている。虐待やネグレクトはもちろんのこと、夫婦喧嘩や、子どもに体罰を与えることも、子どもにとっては強いストレスになる。
だが、ヒトの子どもの脳を直接調べる研究は十分に進んでいなかった。そこで筆者らは、3歳から6歳の幼児を対象に、経済格差が前頭前野の発達に及ぼす影響を調べた。これが冒頭に述べた研究である。
具体的には、3歳から6歳の幼児に上記の実行機能のカードを使ったテストをやってもらい、その際の脳活動を近赤外分光法という手法で計測した。この手法は、脳活動に伴う脳内の酸化ヘモグロビン(酸素と結合したヘモグロビン)と脱酸化ヘモグロビン(酸素と結合していないヘモグロビン)の変化量を計測することで、脳の働きを推定することができる。
さらに経済協力開発機構(OECD)の指標に基づき、子どもを低所得家庭と中・高所得家庭とに分類し、子どもの前頭前野の働きに家庭間で違いがみられるかを調べた。
その結果、低所得家庭の子どもは、実行機能のテスト中に前頭前野を活動させていなかったのに対して、中・高所得家庭では前頭前野の活動が認められた。つまり、前頭前野の発達に経済格差が影響していることが明らかになったのである。
これらの結果は、経済格差が子どもの脳発達に重要な影響を与えることを示している。しかも、その影響は就学前という早い時期から既にみられるようだ。
このような研究結果を突きつけられれば、子どものために何かできることはないかと考えずにはいられない。経済格差の是正が喫緊の課題であることはもちろんだが、そう簡単に解決する問題でもない。発達心理学の立場から何が提言できることはあるか。
実は、低所得家庭の子ども全員が前頭前野を活動させていなかったわけではない。裏を返せば、中・高所得家庭でも、前頭前野を活動させていなかった子どもだっている。
発達の格差を是正するために一つ重要なのは、子どもが強いストレスを感じない家庭環境を作るということだ。
その基本は、安心できる親子関係である。発達心理学では、親子の情緒的な結びつきを「アタッチメント」と呼ぶ。経済的に問題を抱えていても、親子関係がしっかり安定していて、子どもが安心感・安全感を感じることができれば、実行機能の発達には問題が起こりにくい。
こういう話をすると、わが国の場合は母親に責任を帰すことが多いが、それは間違いだ。母親であろうと、父親であろうと、さらには祖父母であろうと、信頼できる大人としっかりとした関係を築くことができればいい。
安心できる関係を築くことが難しいのは、親のほうにも心の余裕がなくなっているケースが多い。ワンオペ育児という言葉があるとおり、子育てにおいて孤立している状況で、余裕をもって子育てすることは容易ではない。子どもの発達を支えるためには、国や自治体が親も支える必要がある。
筆者らは、自治体と連携して、子どもと同時に、家庭をいかに支援できるかを探っている。それほど簡単なことではないが、地道にやっていくしかない。社会全体でこの問題をもっと深刻に考える必要があるだろう。
子どもたちの未来が希望に満ちてほしい。心の底からそう思う。
2019.8.30
現代ビジネス から転載
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