パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

「はじめの一声(ひとこえ)」

2020年09月19日 07時49分06秒 | あれこれ考えること

「だるまさんがころんだ」で知られている遊びは、自分が子供のころ
この地区では「はじめの一歩」と呼ばれていた
現在はもうこの地区でも「だるまさんがころんだ」の呼び名のほう一般的かもしれない

「はじめの一歩」ではなく、「はじめの一声」がその後の流れを決めてしまって
いるのではないかと思うことがある
良いか悪いか、美しいか醜いか、得か損か、面白いか面白くないか、格好いいか悪いか、
お洒落かダサイか、おいしいかまずいか、正しいか正しくないか、
世の中にはこうした判断に悩む問題がいくつもある

本来ならば個人の判断でそれらを決めれば良いのだが、モノゴトはそう簡単に進まず
ある人の「最初の一声」に知らず知らず縛られていないかいるのではないか、、と思ったりする

人は自分の関心のあることなら、それなりの覚悟を持って判断できる
しかし自分の興味の外になるものについては、無知なるが故に自分の判断に自信がない
このようなときは、誰かの声を聞く
専門家に聞けば良いのだが、専門家は身の回りに多くいるわけではないので
ついついテレビとか新聞とか雑誌とか、世の中で囁かれている声とか、、そうしたものに頼ることになる

専門家は各自の信念に基づいてぶれない判断と発言を行うのならば問題はないかもしれないが
専門家ももしかしたら、世間(あるいは同業の専門家)で多く言われている判断に惑わされることはないだろうか
ソロモン・アッシュの同調圧力の実験では、人は知らず知らず多く人の声に従ってしまうとされている
専門家も人の子、どうしても人間的な心理傾向からは逃れられないのではないか

ところで、問題は結局は多数の声となるある種の判断は、どのように出来上がるかという点で
それは「一番最初に声を上げた人の考え」に支配されていないだろうか

ちょいと現実にありそうな話に戻して例を挙げると
女性グループの眼の前にヨレヨレの服を着た若い男がいた
それを見たリーダー的な存在の女性が「格好いい」というのと、「ダサイ」というのでは
その後の空気は全然違ってしまう
リーダーの言葉はカリスマ性があるからではなく、単にある方向を決めただけなのだが
自らの判断を下す面倒臭さと、周りとの摩擦を避けるために、リーダーの声に同調する人が増える
これは想像の世界だが、とてもありそうな話と思える

このようなことが、現実の世の中でも起きているのではないか
世論調査では政策への反対とか(マスク)説明責任を果たしていない(森友、加計学園、桜)
首相の決め方に問題がある、、とする意見が多いにもかかわらず、内閣支持率は想像以上に高い
今回の菅内閣の支持率はご祝儀相場で高止まりしている、、とメディアはのんきに伝える
でも、本当にそうなんだろうか
それは誰か言い出しっぺ、しかも発信力がある人(能力ではなく、立場として)が
意図的か無邪気にかどうかはわからないが、内閣支持率を高止まりする発言をしていないか
(もっとも、代わったばかりで期待しない方も偏屈すぎるので、現実問題として
 ある種の期待するところは仕方ないとしても、、)

要は、世の中は、相対立する意見や考えは、公平に目の前に表されるのではなく
ある種の言い出しっぺの「はじめの一言」に左右されているのではないか、、
というのが今朝の独断

はじめの一声、、、
それはあえて相反する意見を並べる、、ってのも必要と思ったりする

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