パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

結果的には少数者の支配

2019年11月17日 09時01分18秒 | あれこれ考えること

時々、現在の人たちが疑いもなく良きものとしている多数決、あるいは選挙
による民主主義が本当に良いものか疑問に思うことがある
最終的には採決によらざるを得ないとしても、それは選挙を終えた時点で
ほとんど勝負ありとなっている

この採決の権利を持っている議員さんを選ぶ能力は、果たして庶民に備わっているのだろうか
また選ばれる人はその自覚を持っているのだろうか
この根本的なところでどうもスッキリした気分になれないでいる

選挙は選挙に夢中になる人と、無関心層に分かれ、最近は投票に出かけない無関心層が多い
ここで選挙に夢中・真剣になれる人を想像してみると、それは「現実的に得をする人たち」と思われる
理念のあるべき姿に共感したというよりは、今日明日の生活に密着した人々の損得が左右している人々だ

ハンナ・アーレントの全体主義の起源(3)にはこのような現実が書かれている

全体主義運動の大衆的成功は、あらゆる民主主義者、とくにヨーロッパ政党制度の信奉者が後生大事にしていた2つの幻想の終わりを意味した。

その第一は、一国の住民はすべて同時に公的問題に積極的な関心を持つ市民であり、全員が必ずいずれかの政党に組織されるというところまではいかなくとも、
それぞれに共感を寄せている政党はあり、たとえ自分では投票したことがなくとも、その政党によって自分を代表されていると感じているという幻想である。

ところが運動が実証してみせたのは、たとえ民主制のもとでも住民の多数派をなしているのが政治的に中立で無関心な大衆であることがあり得ること、
つまり、多数決原理に基づいて機能する民主制国家でありながら、実際には少数者だけが支配しているか、あるいは少数しかおよそ政治的な代表者を持っていないという国がある
ということだった。


全体主義運動が叩きつぶした第二の幻想は、大衆が政治的に中立で無関心なら政治的な重要性を持たないわけだし、たとえそういう大衆がいるとしても実際に中立的立場を守り
たかだか国民の政治生活の背景をなすにとどまっている、とする考えである。
全体主義運動は権力を握った国にとどまらずすべての国の政治生活全体に深刻な衝撃を与えたが、
それはつまり民主制という統治原理は住民中の政治的に非積極的な分子が黙って我慢していることで命脈を保っているに過ぎず、
民主制は明確な意思を表示する組織された公的諸機関に依存しているのと全く同じに、意思表示のない統制不可能な大衆の声にも依存している
ということがはっきりと露呈されたからである。

ハンナ・アーレントの文体は息が長くて挿入句が多く一筋縄ではいかない
だがこのような注目すべき部分が少なくない

国会で集中審議をしようにも、数の論理(与党が賛成しない)で行えない現実は、実際には少数者だけが支配している姿そのものだ

この実体を若い人はどう考えるか、、
今の自分の大して影響ないから関心はないとか
野党は対案を出さずに批判ばかりしている、、
という認識をする人も少なくないらしい

自分の若い時のノンポリだったことを思い出すと偉そうなことは言えないが
それでも選挙は「バランスを取る、暴走させない!」を意識して投票だけはしていた

それにしても無関心層が現在の状態を支持していなくても、黙っていることによって
結果的に支持していることになる、、という実態は、若い人は知っといたほうが良いと思われる
(そんなこと、知ってる、、と言われるかも)

 




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