映画なんて大嫌い!

 ~映画に憑依された狂人による、只々、空虚な拙文です…。 ストーリーなんて糞っ喰らえ!

れいわ一揆 ~ 東京国際映画祭ヴァージョン(246min.)

2020年02月22日 | 邦画・鑑賞ノート
     ■『れいわ一揆』 (2019年/風狂映画舎) 原一男 監督


 昨年11月2日(土)、第32回東京国際映画祭《日本映画スプラッシュ》部門で特別上映(ワールド・プレミア)されたドキュメンタリー作品(246分)です。場所はTOHOシネマズ 六本木ヒルズ SCREEN2。24時からの開始でした。上映前に約1時間程のトークショーがあり、まずは監督の原一男さんとプロデューサーの島野千尋さんが登壇。それに続いて、主人公の安冨歩さん、れいわ新選組から共に立候補した渡辺照子さん、三井義文さんが登壇。司会は映画祭のプログラミング・ディレクターを務めた矢田部吉彦さん。トークショーの模様は、YouTubeで見られます。以下は、その後でオールナイト上映された『れいわ一揆』東京国際映画祭ヴァージョン(246min.)への感想(twitter)です。今春4月17日(金)から公開される完成版(248min.)とは一部異なります。


 紀貫之は『古今和歌集』の仮名序に「やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」と記した。幾万にも歌われる言葉は、人の心を種としている。人の心。原一男監督は上映前のトークショーで「『れいわ一揆』は、言葉の映画です」と仰っていた。人の心を種として。

 更に、仮名序にはこうも記される。「力を入れずして、天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の仲をも和らげ、たけき武士の心をも慰むる」。人の心を種として歌われるよろづの言の葉。映画の終盤、現状を変える為に何が必要かと問われたこの映画の主人公である安冨歩さんは「言葉」と答える。

 昨今、政界に於ける言葉の形骸化は滑稽なまでに甚だしい。映画の中では、安倍晋三首相、三原じゅん子議員の言葉を槍玉に挙げ、それに加えて、世耕弘成大臣の身振り、丸川珠代候補の笑顔、石原伸晃議員のメガネ。そのどれもが胡散臭く、彼等の言葉は柵で囲われたような隔たりを感じさせた。人の心を種として。

 政権を担当する自民党議員の言葉が柵で囲われたような隔たりを感じさせたのは、冒頭の場面に於ける馬の印象が強く残っていたからだろう。現代に於いて、最早、野生馬としての暮しを望めなくなった馬達が、囲われた柵の中で草を食んでいた光景だ。安冨さんは、この馬を柵の外へ連れ出す。アバンギャルドな旅の始まりだ。

 柵に囲われた馬の光景は、その後の園児達や米軍基地内の海兵隊員の印象とも重なり、それ故、連れ出た馬と、柵を挟んで対峙する彼等の姿とが、一つの画面に納まった意味は大きい。これは、銀座の歩行者天国で柵の陣形で守られた丸川珠代候補と安富さんが、一つに画面に納まった事へも呼応する。

 芭蕉は「月日は百代の過客にして、行き交ふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして、旅を栖とす」と記した。旅の一行は音楽家の片岡祐介さんを加え、奥のその奥の、蝦夷の細道へ。夢幻を彷徨うノマドか何かを想わせる一行と、輝くような草原を捉えた大胆な遠景が美しい。

 擦れ違った観光バスの背面には「旅」の一字が。ロード・ムービー!片岡さんが鍵盤ハーモニカで演奏し続けていた曲は、『♪ジョニーが凱旋するとき(When Johnny Comes Marching Home)』。無事に兵士が帰還する事を願う内容の歌詞で、南北戦争時の流行歌。ザ・クラッシュ(The Clash)の二枚目のアルバム『動乱(獣を野に放て)(Give 'Em Enough Rope)』に収められた『♪イングリッシュ・シヴィル・ウォー(英国内乱)(English Civil War)』の原曲だ。

 上映終了後、『♪ジョニーが凱旋するとき(When Johnny Comes Marching Home)』を選曲したのは「キューブリックへのオマージュです」と片岡さんは語っていた。その約5時間前のトークショーで安冨さんも「スタンリー・キューブリックと岡本喜八の映画だけで私は充分です」と語っていた。

 スタンリー・キューブリックと岡本喜八と云えば、共に諷刺の達人。沖縄創価学会の野原善正さんを東京選挙区で擁立し、公明党の山口那津男代表と激突させた奇策や、或いは、渡辺照子さんが自らを「ド庶民」と語る自嘲は、実にキューブリックや岡本喜八とも通底する風刺の精神に満ちていた。

 『♪ジョニーが凱旋するとき(When Johnny Comes Marching Home)』が挿入曲として使われていたキューブリックの風刺映画は、『博士の異常な愛情』(1964年/英=米)。この副題が重要で、正しくは『博士の異常な愛情:または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』。

 この『または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』という副題こそ、柵で囲われた「立場」への転向を言い表している。『博士の異常な愛情』はその狂気の沙汰を描いていた。『れいわ一揆』の中では、利便性の陰で見え難くなっていた巷の柵(境界)が、馬の出現によってどんどん可視化されて行く。

 顕著な柵(境界)は、警備員の存在に象徴される。彼等は「立場」の代表選手でもあった。代々木公園内、明治神宮駐車場、東京駅前、辺野古新基地建設予定地入口、京都大学校門前。辺野古では一名、立場との葛藤があったのか、涙する者がいた。しかし、あの隊列の異様。

 キューブリックの『博士の異常な愛情:または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』、この映画の題名と、安冨さんの本の題名『ジャパン・イズ・バック―安倍政権にみる近代日本「立場主義」の矛盾』とは、ほぼ同義に思える。日本に民主主義は根付いたのか?

「はたして日本に民主主義は根付いたのか?」、これは上映前のトークショーで原一男監督が投げかけていた問いだった。おそらく、この問いは、あの日あの夜、ヒルズ族の寝静まる頃を見計らうようにTOHOシネマズ六本木ヒルズ・スクリーン2へ集まった観客達の多くが、共有していただろう想いだ。戦後、日本に民主主義は根付いたのか?

 日本に民主主義は根付いたのか?心配するのを止めて水爆を愛するようになった側と、心配するのを止めない側と、その両者の間の境界(柵)とは、どこに存在するのか?馬の口とらへて老いを迎ふるドン・キホーテさながらのアバンギャルドな旅の一行は、その正体を見極めん為の選挙戦を続け、キャメラはその様子を追いかける。

【柵/さく】①土地の境界などに設ける囲い。②木の柱を建て並べて、敵を防ぐために作った砦。古代、東北の辺境に設けられた城郭。(『広辞苑』より)

 もう一つの顕著な柵(境界)は、辺野古新基地建設予定地で警備員を隊列させていた側の柵。銀座の歩行者天国で組まれた丸川候補を囲む自民党議員等の隊列だった。【柵】は【しがらみ】とも読む。

 沖縄の辺野古新基地建設予定地前で、溢れる涙を手で拭っていた警備員は、何を思って泣いていたのだろう。その真意は計り兼ねるものの、もしもそれが人の心を種とする郷土への思いであったとするならば、その沖縄の悲しみと怒りが、野原善正さんの言の葉となって東京選挙区で噴出する事となったのだ。

 警備員の涙や野原さんの怒号は、対立の構図を鮮明にしていた。沖縄の碧く美しい海を埋め立てる生コン、平和福祉を偽る公明党、心配するのを止めて原発を愛するようになった自民党。沖縄の悲しみと怒りは、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。れいわ新選組の言の葉が、人の心に沁み渡って行く。

 悲しみと怒り。木村英子さんの応援に駆け付けた旧知の友である三井絹子さんの号泣。開票後の会見で声を震わせながらマス=メディアを糾弾した支援者の怒り。その日の記者会見場の舞台は、支援者を背負い、マス=メディアを迎え撃つようにセッティングされていた。無論、支援者への報告会はメディアを背に始まった。

 馬の出現による柵(境界)の可視化は、園児を引率する保育士、学校のチャイム、障碍児を引率する職員らによっても齎された。又、馬の落着かない様子からは、その街全体が巨大な柵に囲われている印象を受ける。ならば、出勤時のサラリーマンは、さながら『モダン・タイムス』の羊の群か。

 サラリーマンが羊の群ならば、柵の囲いの外側に生きる人々とは、いったいどんな人々を指すのだろう。例えば、芸能界から弾き出された当事者でもある山本太郎代表や、彼の下に集結した候補者らがそうだったろう。街頭演説に駆け付けた障碍者らがそうだったろう。れいわ新選組へ一票を投じた人々もまたそうであったに違いない。

 アバンギャルドな旅の一行が最終日に選んだ場所は、安冨さんの出身地大阪だった。西成は「あいりん地区」と呼ばれるドヤ街で知られた土地だ。東京で云えば、山谷のような土地柄。戦後、焼け野原だった大都会を復興させた大立役者は、「にこよん」と呼ばれた日雇労働者達だった。しかし、彼等は棄てられた。

 多く棄民の住む西成三角公園を譬えるならば、そこは赤瀬川原平さんの前衛作品『宇宙の缶詰』である。その公園には、人生の指針となる、愛すべき酔っぱらいのおっちゃんがいた!正真正銘、柵の囲いの外側に生きるおっちゃんだ。渡辺照子さんの表現を拝借するならば、「ド棄民」である。この映画の中で最も自由に振る舞っていたのは、このおっちゃんだった!

 ドキュメンタリー映画『れいわ一揆』は、人間喜劇だった。幼い頃に脳性麻痺を患った天畠大輔さんが舩後靖彦さんへの応援メッセージを発する場面で、通訳も務めていた介護者の女性との様子が、とにかく可笑しい。見る人によっては、感じ方や捉え方は異なるだろう。しかし、各々鑑賞者の意識内に、差別の柵(境界)が浮かび上がって来たのではないだろうか。最初は戸惑い、不図、「そうだ笑っていいんだ!」と気付いてからは、あの二人の遣り取りが可笑しくって可笑しくって堪らなくなった。

 4時間を超える上映時間にもかかわらず、「あっ!」という間に終ってしまったのは、何故だろう?楽しかった選挙中の熱気と興奮が蘇って来たからだろうか。様々なかたちで参院選に関わった支援者にとっては、たとえ画面の中に自分の姿が見当らなくとも、「あの中に私もいた!」と思える筈だ。

【一揆】①道・方法を同じくすること。②心を同じくしてまとまること。一致団結。一味同心。③中世の土一揆、近世の百姓一揆などのように、支配者への抵抗・闘争などを目的とした農民の武装蜂起。(『広辞苑』より) 

 この作品は、後世、政治学の観点からも、貴重な映像資料として高く評価される事になるだろう。令和元年(2019年)夏、実際に繰り広げられた本物の国政選挙の記録である。あわよくば、この作品が民主主義のエポック・メーキングな出発点に立ち会った記念碑となる事を祈る。


 以上、まずはここまで。更なる取り留めのない雑多な感想や、その後、2月15日(土)に東京新宿ピカデリーでオールナイト上映された『れいわ一揆』完成版(248min.)の方の感想は、また後日。一部異なる別ヴァージョンです。


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