揖斐川町春日美束は、地理的に見ると関ヶ原に近く、戦乱が起こるたびに多くの落武者や世を忍ぶ者が隠れ潜む場所でした。
関ヶ原合戦の際にも、石田三成や小西行長が関ヶ原から春日を通り逃れています。
春日や伊吹山の深い山中に身を潜めていれば、追っ手を逃れられる場合もあったのです。

教如上人寿像

こんな美束で、現在も尊崇されている人物に教如上人がいます。
教如上人は浄土真宗開祖の親鸞聖人から11代目門主として、戦国の世を生きていました。
関ヶ原合戦の際、かねて親しかった徳川家康を訪ねたことから、教如上人は西軍から命を狙われることになります。

このとき、春日村からは27名の強靭な男たちが大垣の西円寺に逃れていた上人を救出し、春日村へかくまいました。
それを知った石田三成が追手を差し向けたため、上人は春日村にあるいくつかのお寺に隠れていましたが、追手がいよいよ迫ってきたことから、村人は上人を国見峠近くの鉈ヶ岩屋へお連れし、上人は山深い岩屋で村人が運ぶ水や食料で生き延びることになりました。
やがて関ヶ原合戦は東軍の勝利に終わり、上人も晴れて京都へ帰りました。
その後、上人は春日村の人たちへ感謝を伝えるために自画像を春日村へ下さいました。
現在もこの自画像は大切に保存され、毎月五日には旧春日村内の寺が交代で「五日講」という法要を勤めます。
関ヶ原合戦から400年余、今も教如上人の説いた仏の教えは春日の人々の心に生き続けているのです。

種本六社神社

ただ最近では、少子高齢化と過疎のために、この五日講も行われなくなりつつあります。
歴史ある五日講を守っていくためにどうすれば良いのか、頭の痛い問題です。
こうした地域文化が失われていく現状は、五日講だけではありません。
揖斐川町が誇る太鼓踊りにしても、すでにいくつかは廃絶し、現在行われているものも廃絶の危機にあるものがいくつもあります。
皆で知恵を出し合って、山間部の地域文化を維持していければと思います。

西蔵寺

写真は、教如上人座像、種本にある六社神社、教如上人ゆかりの地である西蔵寺蹟を示す看板です。