こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

人生あっという間、私の時間もあと少し。
よりよく生きるにはどうしたらいい?

時は経ち、季節は移る、すべてはやがて消えていく

2020年09月28日 | 日々思うこと、考えること
夜明けと出勤時間が近くなってきた。爽やかな秋晴れ、所用があって久しぶりに背広を着て出てきたがちょうどいい。車窓から見える富士山の上の方はすっかり白い。時とともに全てのものが動いている。時間の流れを認識する者がいなくても時間は過ぎていく。遠い将来、地球が無くなり、太陽も無くなっても。全てが無に帰した時、それでも時間は流れていくのだろうか。それとも全ての存在が無くなったところで時間も無くなるのだろうか。その場に立ち会うことのできる人はおそらくいないので、結局それは誰にもわからない。

昨日のエントリーが腰砕けに終わってしまったのには訳がある。それは腰砕けならぬぎっくり腰をまたやってしまったから。なかなか意欲的なタイトルで始めたまでは良かったが、書いている途中でいったん手を休め、妻と一緒にベランダの掃除を始めた。その時、ちょうど下に置いてあった鉢を持ち上げようとしたらまたグキッと。せっかく治りかけていたのに元の木阿弥。元々のタイトルが大き過ぎたのと、痛みのせいか、過去に考えたこと以上の言葉は出てこなかった。これまでの繰り返しのようなことを書き始めてしまったので格闘することはあきらめ、相撲とドラマ(大河と半沢)のため、早々に切り上げた。

世の中は今、未曾有の不安の中にある。不安の原因は新型コロナウイルス感染症そのものではなく、それによってもたらされたものに移ってきている。ただでさえ景気が悪かったところに感染症の大打撃が追い討ちをかけ、”不要不急”に区別される人や社会が浮き彫りとなってしまった。私自身、病理医という生き方が、医療者として必要なものであるのかを自問した。今は、自らの立ち位置を再確認することができ、職責を全うすべく、(働き過ぎずに)日々奮闘している。そう、時間はほとんどのことを解決してくれるのだ。

3万人には達していないとはいえ、毎日何十人という人が自殺をしている。私が自殺を考えた時は30代だった。子供たちはまだ幼かったが、そんなことは関係なかった。今ある苦しみから逃れたい、その一心で命を絶っていたかもしれない。何かがそれを押しとどめてくれ、今は何食わぬ顔をして生きているが、それはその後の時間が解決してくれたもの。いや、解決されていないことはそれこそ山ほどあるが、それもやがて時間が解決してくれるだろう。人間には時間に加えて老いとか忘却もある。そのことに気がつかず、自殺していく人が後を絶たないのはとても、とてもとても残念なことだ。自殺しようとしている人に直接手を差し伸べ、助けてあげることは私にはできない。わかったような口を利くなと言われたらそれまでだということはよくわかっている。ただそれでも、時の流れに命を任せてみるのは、自殺よりはいい判断ではないかと思う。死ぬ勇気がなかったからかもしれないが、生きる勇気を大切にしてよかったと今は思う。
辛い時間は永遠に続くものと感じられるだろうが、この国には色々なセーフティネットもある。どうしても死ぬしかない、生きるのが面倒臭くなったとなったと思った時でも、その前にそれらにすがってみてはいかがだろうか。
生きよう

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