家族の歴史、今回は、三兄(筆者の父方の伯父)が、騙されて、北海道の炭鉱に連れていかれた話である。
うっすらと聞いていた話であったが、父に再確認して分かったこと。
親族のあまりカッコ良くない話だが、歴史的な事象としての報告である。
1926年前後生まれの三兄は、かなり頭が良かったそうだ。
1940年前後に、高等小学校を卒業し、日立亀有工場に勤めていた。
当時は、社員寮に入っていたそうだ。
戦争が始まった後、1942年か43年頃。
この三兄が、忽然と社員寮から消えてしまったのだそうだ。
会社から連絡があり、家族も心配し、あちこち探すが、全く行方不明。
たぶん、祖父が会社と相談し、休職扱いにでもしてもらったのだろうか。
三か月ほど経過した頃、家に手紙が届いた。
三兄からの手紙で、差出元は北海道からである。
何でも、職場をサボって、浅草で遊んでいたら、良からぬ連中に騙されて、北海道の炭鉱に拉致され、無理やり働かされているとのこと。
当時で言う「タコ部屋」というところに入れられていることが判明したのだ。
祖父は、自分が働いているところで、当時としては大枚であるお金200円を借り、一人で北海道に向かったのだそうだ。
そして、タコ部屋の管理者と掛け合い、借りた大枚の半分くらいを払い、連れ戻すことができたのだそうだ。
その後、三兄は会社に復帰したとのこと。
さて、この話から導き出せること。
・1942年、43年頃はまだ仕事をサボれたこと
戦争が始まってから、1、2年目は、まだ勝っていたので、国内にも余裕があったと聞いたことがある。
「工場をサボって、浅草に遊びに行く」なんてことも、できたようである。
・「タコ部屋」という存在
大昔、「笑点」という演芸番組を見ていた時のこと。
司会の三波伸介にヤイノヤイノ言われた歌丸師匠、「ここはタコ部屋かよ」と漏らしていたことがあった。
世間一般でこの言葉を聞いたのは、このくらいしかない。
「タコ部屋」について、Wikiで調べてみた。
以下、引用。
↓
タコ部屋労働(タコべやろうどう)とは、主に戦前の北海道で、労働者をかなりの期間身体的に拘束して行われた非人間的環境下における過酷な肉体労働である。
土工夫を収容したいわゆる土工部屋は、信用部屋とタコ部屋に大きく分かれていた。
信用部屋は、自らの意思で土工夫となった信用人夫を収容したもので、1932年(昭和7年)の北海道土工殖民協会の設立以後に多くなってきた。
これに対するタコ部屋は、東北地方の農村や、東京・大阪都市部に住む下層民のなかから、「ポン引き」とよばれる募集屋や斡旋屋の手を通じて集められたものが多くを占めた。
その過程で、多額の前借り金や募集費を背負う羽目に陥った労働者たちは、そうした経費回収の意味もあって、普通は6か月程度の契約期間中、常に土工部屋に拘束された。
↑
以上、引用終わり。
「タコ」とは「他工」から来ているとも聞いたことがある。
そう言った過酷な労働環境が、当時はあったのである(ブラック企業なんてぇのは、もっと悪辣なところが昔からあったのだ)。
つまり、三兄は、騙されて、北海道まで連れていかれて働かされていたようだ。
・北海道まで行くこと
1940年代、それも戦争中に北海道に行くこととは、どういうことで、どのくらい時間のかかることかは想像するしかない。
今でさえ、かの地に行くには、気楽に行けはしない。
当時だったら、蒸気機関車の東北本線で青森まで、24時間以上かけていき、青函連絡船に乗って津軽海峡を渡り、函館からまた蒸気機関車で目的地まで行くことになる。
遥かな旅である。
それも息子を取り返しに行く50代初めの父親だったら、どんな気持ちの旅だったのか。
これも想像するしかない。
事の顛末を知る本人は、何も語らずに数年前に亡くなり、事情をすべて知っていた長兄も10年ほど前に亡くなった。
北海道まで出かけた祖父(三兄の父)は、もう50年近くも前に亡くなっており、すでに関係者はこの世にいない。
この話を聞いて、映画「男はつらいよ」のエピソードを思い出した。
旅先での兄の不始末のしりぬぐいをしに行く妹の話である。
たぶん、一つ前の時代(2020年から見れば80年前だね)には、似たような話は結構あったのかも知れない。
今は、なかなか想像もつかない世界ではあるが、そんな状況がまだギリギリ生活の中で語られる時代ではあるのである。