BAR Moonlight 第18話「God father,Good father」 | 春風ヒロの短編小説劇場

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春風ヒロが執筆した短編小説を掲載しています。

 私がその光景を見たのは、ある平日の朝。五月の下旬に差し掛かろうというのに、前夜の雨のせいで、ひどく冷え込んだ日のことだった。
 荷台部分に子供用座席を取りつけた自転車をこぐ、中年の父親。白のワイシャツにネクタイをなびかせながら、必死の形相で街を疾駆している。その後ろには、幼稚園の制服姿の女の子が座っている。制服の上には、防寒着の代わりであろう、父親の背広を羽織っていた。
「……坂崎さん」
 必死に自転車をこいでいたのは、かつての常連客。結婚し、子供を授かって以来、店から足が遠のいている坂崎だった。出勤前に子供を幼稚園へ送るのだろうか。少しでも肌寒さから子供を守ろうと、背広を着せてやる優しさにほほえましいものを感じながら、私は家路をたどった。

 週末の夜はいつも忙しい。まだ六月中旬だというのに、毎日、夏本番を思わせるような蒸し暑さを感じる日が続くと、一杯の涼とひと時のくつろぎを求めて来店する客がさらに増える。おかげで、店内はほぼ満席となっていた。
 この時期になると、フローズン・ダイキリやフローズン・マルガリータに代表されるフローズン系のカクテルや、パッソアやマリブ、マンゴヤンといった南国系リキュールをベースに使ったトロピカルカクテルが好まれるようになる。
 トロピカルフルーツの仕入れを増やし、「夏向けのカクテルキャンペーン」でも始めてみようか。
 立て込むオーダーを一つひとつさばきながら、そんなことを考えていた矢先、ドアにぶら下げたベルが来客を告げた。
「いらっしゃいませ」
 反射的に声を掛けながら、素早く目を動かして客の人数と店内に残っている空席を確認する。楽しいひと時を求めてせっかく足を運んでくれた客に、「申し訳ありませんが、あいにく満席でして……」と断るときの切なく、気まずい思いは、言葉ではなかなか表現しづらい。無論それは、店がそれだけ人気を集めている証拠でもあるのだが。
 幸い、来店者は一人きり。それも、見知った顔だった。カウンターの隅に残っていた空席を指し示し、私は彼を迎えた。
「いらっしゃいませ、坂崎さん。こちらの席へどうぞ」

 ほかの客がそれまでに出していたオーダーを十分近くかけて処理し終わり、ようやく坂崎のオーダーを取ることができた。
「お待たせしてすみませんでした。今夜は、何をお出ししましょう? また、デュカスタンにされますか?」
「ははは、哺乳瓶はもう何年も前に卒業しましたよ。おしゃぶりだって使わなくなったし……。子供の成長は、本当にあっという間ですね」
 そう笑いながらバックバーに並べたボトルを眺める坂崎の顔は、数年前とほとんど変わっていない。ただ一つ、確実に変わったといえるのは、目尻に笑いじわが増え、表情が和やかになったことだろう。決して以前から険のある顔つきをしていたというわけではない。しかし、一層表情が柔和さを増したように見えた。
「じゃあ、グレン・フィディックを水割りでもらえますか」
「かしこまりました。今夜は一人で出歩いても大丈夫なんですか?」
「ええ、嫁と子供が泊まりがけで遊びに行ってますから。『パパも誰かと飲みにでも行ってきたら?』と、嫁からのお墨付きです」
「そうですか、いい奥様ですね。ちょっと混雑してますけど、ゆっくりしていってくださいね」
 そんなやり取りを交わしたところでほかの客からオーダーが入った。私は坂崎に会釈をすると、次のオーダーに取りかかった。

 バーのカウンター席というのは、不思議な空間だ。まったく一人きりで何時間も過ごすことだってできる。しかし、たまたま隣り合っただけの見ず知らずの赤の他人とも、一杯の酒を介して、ひと時の友人になれる。男女であれば、時にはそれが一夜の恋につながることだってある。
 一人で来店した坂崎だったが、気がつけば隣席の女性と何やら親しげに話し込んでいた。二人の様子は「たまたま隣り合っただけの客」と言うには少々親密すぎるような、不思議な雰囲気を醸し出している。とはいえ、客のプライベートに立ち入るのはバーマンにとって最大の禁忌。不倫だろうとナンパだろうと、一切関知することはない。私は素知らぬ顔で接客を続けた。
 一時間ばかり過ぎてふと坂崎のほうを見ると、ちょうど件の女性が片手を上げ、会計を求めてきた。坂崎は席に座ったまま、ゆっくり水割りを味わっている。このまま連れ立ってどこかへ……という雰囲気ではなさそうだ。
「では、また」
「ええ、今日はありがとうございました。またよろしくお願いします」
 女性は坂崎とそんなやり取りを交わすと、そのまま店を後にした。
 私は少し気になって、坂崎に尋ねた。
「お知り合いの方だったんですか?」
「そうなんですよ。娘の友達のお母さんです。まさかこんなところで会うなんて、お互いにビックリしました」
「ずいぶん親しげに話しておられたから、彼女さんか何かなのかと思いましたよ」
「ははは、まさか。あえて言うなら、『ただの顔見知り』ってやつですよ。だけど、親になるって不思議なもんですね。結婚前ならまったく共通の話題なんてなかったような相手でも、『○○ちゃんのパパ・ママ』として子供の話をすれば、一時間近く話が続く。男女という以前に、『子育て中の戦友』みたいな感覚を共有してるような気がしますね」
「そんなもんなんですか……。子供のいない私には、ちょっと理解の及ばない世界かもしれません。そういえばこの前、自転車に子供さんを乗せて走っていましたね」
「えっと……、いつの話ですか?」
「二週間ほど前だったかな、やたら肌寒かった朝のことですよ」
「ああ、あの日ですか。嫁が急に体調を崩してしまったもんで、出勤前に私が幼稚園へ送ることになったんです。娘が寒い寒いって文句ばかり言うから、防寒着代わりに背広を着せて。おかげで私も寒かったし、会社には遅刻しそうになるし。まったく散々でしたよ」
 そう言いながらも、満更でもなさそうな顔をして坂崎は水割りを飲み干した。
「お代わり、お作りしましょうか?」
「お願いします」
「何にいたしましょう?」
「そうだなあ……。何か、カクテルに行きたい気分ですね。お勧めはありますか?」
「じゃあ、お勧めを作りますね。ヘビーなものでも大丈夫ですか?」
「まだ水割り一杯飲んだだけですからね。大丈夫ですよ」
「かしこまりました」
 私は一礼し、バックバーに向き直った。何を作るかは、既に決まっている。問題は、ベースの酒に何を選ぶかだった。
 しばらく悩んだ末、私は一本のボトルを手に取った。表面に「クラックス・パターン」というひび割れ模様の施された、四角いボトル。「オールド・パー」だ。氷を入れたオールドファッションド・グラスに注ぎ、杏のリキュール「アマレット・ディ・サローノ」を加える。軽くステアして完成だ。
「お待たせしました。どうぞ」
「ありがとう、頂きます。このカクテルの名前は?」
「通常なら『ゴッド・ファーザー』です。だけど今夜はちょっと特別版にしてみました」
「どのへんが特別なんですか?」
「ベースに使ったのは『Old Parr』。この酒のモデルになったのは、トーマス・パーという、日本でいえば戦国時代ぐらいに実在した人物です。この人は八十歳で結婚し、百十二歳で奥さんと死別。百二十二歳で再婚して、百五十二歳まで生きたという、伝説的な人物です。一説には、お祖父さんの生年と記録が混同されていて、実際の没年齢は八十歳前後だったという話もありますが、それでも当時ではかなり長生きだったのは間違いありません。つまり、トーマス・パーにあやかって、いつまでも元気でいてください、っていうわけです」
「なるほど、ありがとうございます」
「それから、もう一つ。『Old Parr』の頭文字、Oを『God father』に足して、『Good father』ということでいかがでしょう? 素敵なお父さんへ、私から父の日のプレゼントです」
「ああ、そういえば明日は父の日でしたね。ありがとうございます。いい父親やってるのかどうか、分かりませんけどね。そっか……。自分が父の日を祝われる立場になったんだなあ……」
「娘さんが帰ってきたら、『お父さん、いつもありがとう』なんて言って、お父さんの似顔絵を渡してくれるかもしれませんよ」
「そんな定番イベントを自分が体験する日が来るとはなあ……。いやあ、なんかすごいですね」
 坂崎はいとおしそうに両手でグラスを抱え、しみじみと言った。

 坂崎は、それからほどなく店を後にした。
 私自身は家庭を持っていないが、坂崎という一人の客を通じて、その喜びを共有したように思えた。
 彼が次に来店するのは、いつになるだろう。そのころにはきっと、子供はさらに大きくなり、いまとはまた違った形の楽しみや、悩みを抱えていることだろう。その日が、いまから待ち遠しかった。
 パーじいさん。叶うならば、どうか彼が末永く元気でいられますように――。
 私は小さなグラスに自分用の「Good father」を作ると、カウンターの陰に置いた。
「お父さんたちに、乾杯」
 相次ぐ客のオーダーに応えながら、私はそうつぶやいた。


【ゴッド・ファーザー】
ウイスキー 45ml
アマレット 15ml

ウイスキー 7/10
アマレット 3/10
(IBA(国際バーテンダー協会)のオフィシャルレシピ)

氷を入れたオールドファッションド・グラスに注ぎ、軽くステアする。


作者注
本作は昨年の父の日に公開するつもりで執筆したものです。
なお、作中に登場する「Good father」は作者が考案したもので、バーなどで注文しても提供してもらえるとは限りません。
また、ベースに使ったウイスキー、オールド・パーは非常に高価な酒で、バーなどで気軽に注文すると驚くような金額を請求される恐れがあります。ご自身の財布とよくご相談の上、自己責任でご注文ください。