BAR Moonlight 第19話「バイオレット・フィズ」 | 春風ヒロの短編小説劇場

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春風ヒロが執筆した短編小説を掲載しています。

 冷たい雨の降る夜だった。
 天気予報では、この冬最強の寒波が襲来しており、県北部で大雪。中部でも山間部は雪が積もり、平野部でもこの雨は夜更けすぎから雪に変わるだろうと警戒を呼び掛けていた。
 店内に客の姿はない。平日。雨。寒さ。これだけの悪条件が揃えば、客足が振るわないのはやむを得なかった。伝説のバー「レモンハート」のように、雨が降っても雪が降っても店に足を運ぶ、松ちゃんやメガネさんみたいな常連客は、現実にはなかなかいるものではない。
 私の傍らには、小さな紫の花弁を開いたばかりのスミレの鉢植えがあった。春の雰囲気を出せればと思って、しばらく前に購入したものだ。購入時はまだつぼみのままだったが、暖房の利いた店内に数日置いたことで開花が促されたのだろう。天気のいい日など、日当たりのいい場所に出しておいてやれば、これから次々と花を咲かせてくれそうだった。
 ニオイスミレの名の通り、ほんの一輪、開花しただけだというのに、バニラのように甘い香りを、馥郁と漂わせていた。
 来客を告げるドアベルが静かに鳴る。来店したのは一人の若い女性だった。
「こんばんは。ずいぶん暇だったもんだから、店、任せて出てきちゃいました。マスターも暇してるんでしょう? よかったら少し雑談に付き合ってくれません?」
「いらっしゃいませ、葵さん。見ての通り、うちはいつでも閑古鳥のバーゲンセールですから、ご来店は大歓迎ですよ」
 葵はすぐ近くでカクテルバーを営んでいる。フレッシュフルーツを使ったカクテルが売りで、若い女性に人気の店だ。と言っても、普段は二人の従業員に店を任せており、オーナーである彼女自身が店に立つことはほとんどないという話だった。
「外、びっくりするほど寒いですよ。通りを歩いてる人なんてほとんどいないし、雪が本格的に降りだす前に、うちは早じまいしようかと思ってるところなんです」
 葵がそんなことを言いながら、コートを脱いでハンガーに掛ける。後ろを向いた瞬間、背中まで伸びた彼女の髪に、キラキラと輝く小さな結晶がいくつか貼りついているのが見えた。
「もしかして、雪、降り始めました?」
「ええ、まだそんなに強く降ってるわけじゃないけど、時間の問題でしょうね」
 寒さのせいか、元から白い葵の肌が一層白く見えた。
「そうですか……。じゃあ、自転車で帰宅するのはちょっと覚悟が必要かな。さて、今夜は何をお作りしましょう?」
 熱いおしぼりを差し出しながら尋ねる。葵はしばらく視線を彷徨わせていたが、やがて私の傍らに置いてあるスミレの鉢に目を止めた。
「ああ、いい香りがすると思ったら、ニオイスミレだったんですね」
「あ、これですか。ちょっと店に春めいた雰囲気が出るかと思って買ったんです。つい最近開花したんですよ」
「いいですね。やっぱり小さくても、お花が一つあるだけで店内の空気がパッと明るくなりますもんね。じゃあ、その子にちなんで、バイオレット・フィズをもらえますか?」
 ニオイスミレの英名は「Sweet Violet」。葵の注文は、それにちなんだものだ。
「かしこまりました」

 私は以前、葵から聞いた話を思い出しながら、パルフェ・タムールのボトルを手に取った。
「20歳の誕生日に、父が知人の経営するパブに連れて行ってくれたんですよ。『好きなものを頼んでいいぞ』って言われて、注文したのがバイオレット・フィズだったんです。きらめくグラスに満たされた透明な紫、甘くて、華やかな香り。不思議な味……。私が初めて大人の世界に飛び込んだ、思い出のカクテルなんですよ」
 だから彼女の店では、フレッシュフルーツを使ったカクテルと合わせて、バイオレット・フィズを売りにしているのだと、彼女は話していた。
 レモンをスクイーザーで絞り、メジャーカップで計量してから果汁をシェーカーに注ぐ。同じく、パルフェ・タムールをメジャーカップで計量し、シェーカーに注ぐ。砂糖を加えてシェイクし、コリンズグラスに注いだら、ソーダを加えて完成だ。
「お待たせしました。『お父様の思い出』です」
「ありがとう。覚えていてくれたんですね」
「もちろんですよ。音楽室の話など、とても印象的でしたからね」
「音楽室の話」というのは、彼女が子供のころに住んでいた家にあった部屋の話だった。彼女の父親は自宅の一室を改造てオーディオ専用の部屋を作り、そこを「音楽室」と呼んでいた。彼女もその部屋で、父親が収集したLPレコードをよく聴かせてもらっていたという。深々と雪が降り積もる日に二人でこたつに入り、何枚もレコードを聴き続けていたのだ――と。
「特に何か話したりはしなくて、ただ一緒に音楽を聴いてただけでしたよ」
 彼女はそう話していたが、父親と共有した時間そのものが大切な思い出になっているのだと、私には感じられた。

「マスターは『BANANA FISH』って作品、ご存じですか?」
 ゆっくりとグラスを傾けていた葵が、不意に尋ねた。
「詳しくは知りませんが、タイトルは知ってますよ。30年ぐらい前に連載されてた作品だったと記憶してますが……」
「つい最近、深夜アニメで放送されてたんですよ。『バナナフィッシュ』っていう薬物を巡って暗躍するマフィアと、それを追求する主人公たちの話なんです。主人公のアッシュはストリートギャング上がりのアウトロー。もう一人の主人公の英二は日本から来た純朴な大学生。二人は友情を育みながら陰謀を説き明かしていくんですけど――」
 葵はしばらく、『BANANA FISH』について熱弁を振るっていた。
 最後の場面はニューヨークの市立図書館。アメリカを発って日本へ帰る英二を、
「オレみたいな人間は、英二の人生に関わっちゃいけない」
 そう言ってアッシュはあえて見送らず、一人で過ごす。
 そこへ、英二の手紙が届けられる。
「君は一人じゃない、ぼくがそばにいる。ぼくの魂はいつも君とともにある」
 本来、交わるはずのなかった二人の人生。それが、「バナナフィッシュ」を巡る陰謀と戦いを経て、分かつことのできない、強い絆で結ばれた。
 どんなに遠く離れても、ぼくたちの絆が途切れることはない。死すらも、ぼくたちの友情を損なうことはできない。
 そんな英二のメッセージに感極まったアッシュは、図書館の外へ飛び出す。しかし、そこで生き残っていた敵の一人に見つかり、ナイフで刺されてしまう。自分が助からないと悟ったアッシュは館内に戻り、英二の手紙の続きを読みながら息絶える。とても穏やかで、満足げな笑みを浮かべながら――。
「ツイッターに、アッシュが座っていた座席から撮影した写真がアップされてたんですよ。これがアッシュの最期に見た景色だったんだなあとか、どんな気持ちだったんだろうって考えると、もう涙が止まらなくて……。放送が終わってからは、すっかり『バナナロス』になっちゃいました」
「そんなに感情移入できる作品に出合えたのは、素敵なことでしたね。そういえば京都で、いろんなアニメとコラボしたお酒を出している酒造業者がいましたっけ。『BANANA FISH』のイメージボトルも作っていたと思いますよ」
「へえ、そうなんですね。うーん、欲しいなあ。店に飾る分も合わせて、何本か買っちゃおうかな。経費で落とせると思いますか?」
「あはは、それは従業員さんたちと相談してみてください。ちなみに、『BANANA FISH』ボトルに入っているのは、日本酒じゃなくてスパークリングワインだそうですよ」
「え、でもそこって、日本酒の会社なんですよね? 自社でワインも造ってるのかな。外部委託してるのかなあ……」
「どうでしょう……。私には分かりませんが、いずれにせよ、いろんなことを考える業者がいるもんですね。みんな、生き残るためにいろんな必死なんでしょう。さて、グラスが空いてますけど、お代わりされますか?」
 私は片手でグラスを指し示した。空になったグラスの縁にごくわずかな滴が残り、キラキラと輝いている。
「いえ、今日はこれぐらいにしておきます。久しぶりにバイオレット・フィズを飲めて、うれしかったです。このお酒と雪のおかげで、父のこと、いろいろ思い出しちゃいました。『BANANA FISH』のことも思う存分語れたし、今夜は満足です」
「そうでしたか。喜んでもらえたら、何よりです」
「お互い、お客さんから『私にとってこの店は、この一杯のためにあった』って言ってもらえるような、そんなお酒を作っていきたいですね。じゃ、おやすみなさい」
「またのご来店をお待ちしてますね」

 葵が店を出た瞬間、ドアの隙間から予想以上に冷たい風と数片の雪が舞い込んできた。どうやら外は、本格的な吹雪になっているらしい。
 これはもう、帰宅をあきらめたほうがいいかもしれない。幸い、店のバックヤードには仮眠用のスペースもあるのだ。貴婦人たちが香水として身にまとったバイオレットの香りに包まれて眠るのも悪くない。
 ……花言葉「高尚」には、ほど遠い生活スタイルだけれど。


【バイオレット・フィズ】
クレーム・ド・バイオレット 45ml
レモン・ジュース 20ml
砂糖 1tsp
ソーダ 適量

ソーダ以外の材料をシェークしてコリンズ・グラスに注ぎ、氷を加える。ソーダで満たし、ステアする。