短編恋愛小説「悪女宣言」 | 春風ヒロの短編小説劇場

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春風ヒロが執筆した短編小説を掲載しています。

「ね、私にも飲み物取ってもらっていい?」
 ぐったりとベッドに横たわったまま、私は彼に声をかけた。
 まだ下腹部の奥に甘い快感の余韻が残っていて、体に力が入らない。熱くなった素肌に直に触れる、ヒンヤリとしたシーツの感触が心地よかった。
「水でいい? それとも何か注文する?」
「今は水ちょうだい。でも、後でビールも飲みたいな。注文しといてもらえる?」
「オッケー。はい、どうぞ」
 彼が差し出してくれたペットボトルの水を受け取って一気に飲む。水の冷たさが体の中にしみ込んで、ようやく私はひと息をついた。
「――サービスメニューのAセット二つと、生ビール二つ、お願いします」
 バスローブを着た彼が、ベッドサイドの電話でフロントに注文している。
 ホテルのバスローブって、どうしてこんなにダサいデザインなんだろう……。私は、そんなことを取りとめもなく考えながら彼の背中を見つめていた。
「普段、家ではお酒飲まないんだろ? 飲んで帰って、怪しまれない?」
「一杯ぐらいなら大丈夫よ。こんな時でもないと飲めないんだしね」
 そう言って私は肩をすくめた。もともと私は酒好きで、独身時代は毎週のように友達と飲みに行っていたし、自宅で一人、晩酌を楽しむことも多かった。
 しかし、酒を一滴も飲めない夫と結婚してからは、ほとんど飲まなくなった。夫は口では「飲んでいいよ」と言うものの、実際に私が一人で飲んでいると、露骨に嫌な顔をする。それどころか、「まだ起きてるの?」「こんな時間にそんなもの食べてたら太るよ」「ずいぶんたくさん飲んだんだね」とネチネチ文句を言ってくるのだ。
 普段、すれ違いばかりなんだから、酒のことだってすれ違ったまま、知らん顔してくれてたらいいのに……。
 そんなとげとげしい台詞をグッと飲み込んで、家には料理酒とみりん以外の酒を一切置かないようにしたのは、家の中に無駄な波風を立てたくないからだ。
 酒に限らず、食生活や家事一切を夫好みに仕立てあげ、表面上は「仲のいい夫婦」を演じておく。そうすれば、必要以上のストレスを味わわずに済む。
 それに――。
「さっきは、すごかったね。久々だったから、たくさん感じちゃった?」
 彼の言葉に反応して、再び体の奥が甘くうずく。
「うん……。まだ余韻が残ってるよ」
 そう言って私は笑う。
 表面上、「仲のいい夫婦」を演じていれば、こうして時々、彼とのデートを楽しむことだってできる。
「今日は友達とランチしてくる」と言えば、夫は「ああそう、行ってらっしゃい」のひと言で、それ以上追求してこない。私がどこで何をしていても、興味がないのだろう。
「友達とランチしてくる」というのは、実に便利な言葉だ。たとえ体の関係があっても、彼とは「恋人」と言えるような関係ではないし、「昼食を家の外で食べてくる」という点で言えば、「ランチ」だって事実なのだ。
「どんな友達と、どこで、何を食べてくるか」まで詳しく説明しようとすれば、ウソをつかなきゃいけなくなるけれど、「友達とランチしてくる」というひと言だけを見れば、何もウソはついていない。
 まったく、私は悪い女だ。いちおう、自覚はある。

 彼との付き合いは、もう二年になる。
 私のほうが年上だし、「付き合ってほしい」と彼から言われたときは、ドッキリか、何かの冗談だろうと思ったものだ。お茶や食事のお付き合い程度ならともかく、何度目かのデートでストレートに「抱きたい」と口説かれたときも、まだ半信半疑だった。
 二十代のころならともかく、四十にもなれば、体中、どこもハリやツヤとは縁遠くなってしまう。夫とも、数年前から完全に夜の生活はなくなっていた。
 ただひたすら母として、妻として家族のためだけに尽くす毎日。自分磨きの時間も取れず、「女」としての自分を置き去りにして送る日々。唯一の楽しみは酒の代わりに一人で食べるコンビニスイーツ。彼がこんな私の、こんな体のどこに魅力を感じたのか、まったく理解できなかった。
 しかし無下に断ることもできず、彼に手を引かれてホテルに入り、私は本来超えてはいけないはずの一線を超えた。
 そして、禁断の果実の味を知ってしまった。
 例えるならば、それはチョコレートガナッシュのように濃厚な甘さ。「こんなことをしてはいけない」という理性すらも絡め取り、むしろ、その背徳感自体が官能の歓びを一層濃厚なものにする。底なし沼へ沈んでいくと分かっていながらも抵抗できないまま、むしろ、この甘さに溺れてしまっても構わないと積極的に考えてしまうほどに、抗いがたい魅力をたたえていた。
 彼と、この時間を共有できるなら、私は「悪い女」になろう。
 そう思った「あの日」から、あっという間に二年が過ぎた。

「好きだよ」
 二人きりで過ごしているとき、彼は何度も、そう口にする。
 夫から、もう何年も言われていない言葉。それどころか、結婚前に付き合ってきた何人かの男たちからも、ほとんど言われたことのなかった言葉。そんな、たった四文字の言葉を掛けられるだけで、自分でも驚くほど幸福感が湧いてくる。女として求められることで、自分が満たされると感じる。
 彼が本心から言っているのか、口先だけで優しいウソをついているのか、私には分からない。
 分からなくていい、と私は思う。
 ブックカバーのように、本当の心を覆い隠し、ひと時の関係を飾り立て、つなぎとめるためだけの言葉だったとしても、それで私自身が満足しているのだから。それで十分なのだ。
「私も、好きだよ」
 そう返す。
 その言葉にウソはない。そう口にすることで、たとえひと時だけでも、私は彼の恋人でいられる。
 ブックカバーのかかった恋。そんなふうにつぶやいてみる。うん、なんだか詩的な響きで悪くない。
 アダムとイブは禁断の果実の味を知って、エデンを追放された。
 私も、後戻りはできない。もう、すっかり悪女になってしまったのだから。


本作は某コミュニティサイト内で募集したお題に基づいて執筆したものです。
本作のお題は「優しいウソ、ブックカバー、お酒」でした。