真っ暗な防波堤沿いの空きスペースに軽トラックを止めると、すぐに波音が耳を打った。
ざぁん……ざぁん……ざぁん……。
懐中電灯で足元を照らしながら、堤防に設えられたコンクリートの階段を下りる。一歩ごとに目の粗いコンクリートと砂が靴の下できしみ、その音が波音に重なる。
街灯もなく、近くに民家もほとんどない。三重県の最南端、御浜町の中でも、そこは特に人気の少ない海岸だった。
時折、光の輪の中をフナムシが横切る。昼間はあれほど俊敏に動くのが嘘のように、緩慢な動きだ。釣り人は、夜の間にこの虫を捕まえて生餌にするという。
砂浜に降り立つと、私は背負っていたアウトドアマットを広げ、その上に腰を下ろした。
空には星が広がっている。しかし、その光だけでは茫漠とした空と海の境界線までは判別できない。
それでいい。
天と海の間に自分の体を置き、地球の大きさを直肌に感じたかったのだから。
そのために、旅の最初の目的地をこの場所に決めたのだから。
上着のポケットからカップ入りの日本酒を取り出し、封を切る。まったりとした風味の酒を淡々と喉に流し込みながら、私ははるか遠い昔の記憶を手繰っていった。
あれは、半世紀近く前。
つまり、まだ私が高校生のころだった。
当時は新大阪駅を22時45分に出て、翌朝5時10分に新宮へ到着するJRの夜行快速列車が毎日運行していた。
青春18きっぷを使ってこれに乗れば、寝ている間に和歌山と三重の県境の町まで行くことができる。そこから北上すれば三重・熊野を経て名古屋へ。南下すれば本州最南端の地、串本町から南紀白浜を経て和歌山市へ。ただひたすら海岸線に沿ってゆっくりと走る電車の旅は、将来に悩み続けていた私にとって、自分自身を見つめる貴重な時間を約束してくれるものだった。長期休暇に入るたび、私はリュックにわずかな着替えとなけなしの現金、そして青春18きっぷを入れて旅に出た。
あの景色を見たのは、初めて冬休みにこの路線を訪ねた時だ。
新宮駅のホームに降り立つと、ピリピリと冷たい空気が頬を刺した。
2月の朝5時といえば、まだ真夜中だ。駅構内は明々と照らされているが、少し離れた街並みに目をやれば、家々はまだ夜の闇に包まれて深い眠りに沈んでいる。
新宮駅構内の立ち食い店で熱々の月見うどんを食べ、体を温めてから多気行きの普通列車に乗り込む。やがて、ディーゼル駆動車両特有のけたたましいエンジン音と共に列車が動きだす。
窓の外に目をやると、海が広がっている。
ついさっきまで漆黒の闇に溶け合っていた空と海が、1秒ごとに明るさを増し、その色合いを変えていく。
黒から紺へ。紺から青へ。そこへ赤紫が交じり、赤、橙、黄金色とグラデーションしながら景色に輝度と明度を加えていく。そのグラデーションがピークを迎えた瞬間、水平線を割って、一筋の光の矢が差し込んでくるのだ。
最初はたった一筋の髪の毛のように細かった光が、徐々にその太さを増し、水平線から海岸まで、輝く光の道を描き出す。海面は黄金を溶かしたようにうねり、不定形の波濤は世界中のダイヤモンドを集めて一面にまき散らしたように輝く。
その彩りの鮮やかさは、一瞬ごとに姿を変えて私の網膜に焼き付いていった。
それは、極言すればただの夜明けだった。
誰に見られようと、誰も見ていなかろうと、太古の昔から幾億回、幾兆回と繰り返されてきた、大自然の中のごく当たり前の営みだった。
しかし、知識としてそれを知っていることと、自分の目で、耳で、肌で、それを感じることは、まったくの別物だった。
あの景色を見たから自分の人生が変わったなどと、大げさなことを言うつもりはない。
しかし、あの景色が自分の中の感性を刺激したことは間違いない。記者、編集者、カメラマン、そして作家として、40年以上にわたり、創作・表現活動に携わってきた私の原風景の一つが、あの日見た夜明けだった。
あれから半世紀近い時間が流れた。
定年退職を迎え、私は、長年の夢だった幌つきの軽トラックを買った。
必要最低限の生活雑貨と寝袋を荷台に積み、そこで寝泊まりしながら、これまで取材で訪れた土地や、行ってみたいと思っていた場所を片っ端から訪ね歩く。40代のころに思いつき、準備を進めてきた計画を、いよいよ実行に移す時が来た。
その最初の目的地が、この海岸だった。
長年、旅をしてきた自分にとって忘れ得ぬ風景。だからこそ、定年後の第二の人生の出発点としてふさわしいはずだと思った。
この場所で夜明けを迎えたからといって、これからの旅が何か変わるわけではない。
しかし、何かが見つかるはずだ。
私は空になった酒のカップを砂浜に置くと、静かに海を眺め続けた。
さあ、少しずつ空が青みを帯びてきた――。
本作は某コミュニティサイト内で募集したお題に基づいて執筆したものです。
本作のお題は「夜行列車、うどん、フナムシ」でした。