時は満ち、神の国は近づいた。 | Verbum Caro Factum Est

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僕Francisco Maximilianoが主日の福音を中心に日々感じたことや思うことを書き綴るBlogです。同時に備忘録でもあります。

今年の四旬節が始まった。

マルコ福音の冒頭にイエスの受洗と荒野での40日間の試み、ガリラヤでの福音宣教の発端が描かれている。

 

四旬節というと洗礼志願者の準備とすでに洗礼を受けた信者の回心の期間と言われる。四旬節の典礼や習慣はとても象徴的で意義深いが、同時に誤解を招きやすいように思う。どのような誤解か。罪と回心、試練と慰め。

 

マルコ福音によれば、イエスが洗礼を受けた受けた後、天が開け、霊が鳩のように降り次のような天の声を聞く。

「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」と。

 

この声を聞いた後、同じく霊が荒野へとイエスを行かせ、40日そこで試みにあう。その40日の試みの後、福音宣教のはじめにイエスが語った言葉は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」という言葉である。一つ一つの言葉だけで何回も記事が書けるくらい一言一言の捉え方や原語の意味、また、ヘブライ的な背景など複雑な言葉の連続である。だからこそ、誤解を招きやすい、といつも思っている。

 

今日短く書きたいのは、わたしたちの思い、言葉、行い、怠りの有る無しに関わらず「時は満ち、神の国は近づいた」ということ。つまりわたしたちの行いによって、例えば罪的な何かを悔やんだりやめようと試みたり、それらをしようとしまいと「神の国は近づいた」ということ。わたしたちの思いや行いの「改心」が神の国を引き寄せるわけではない。

 

わたしたちはその神の国に招かれた者であるから、神に背を向けたり、神の国の選びから的外れに思うのをやめ、神の思いにすでに与っているものであるということに再び気づき直す必要と心の開きが大事である。なぜならわたしたち一人一人はすでに神の「愛する子、心にかなう者」なのだから。

 

洗礼によってキリストの十字架と死に結ばれ復活の希望を持って生きるキリスト者は、すべて一人一人に、例外なく、条件なく、イエスと同じ言葉が心の奥底に囁かれている。

 

「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」という天の声が。

 

わたしたちの生活は、良くも悪くも雑音だらけで、本当に必要な美しくて優しい暖かい愛の声がかき消されてしまっているように思う。「あれをしろ、これはするな、こうであれ、ああであるな、これを買え、これを獲ろ!」そのような雑音の中にあって、わたしたちの魂の深奥に常に降り注ぎ囁かれている神の愛の声が聞こえないどころか、自分には語られていないとすら感じてしまう時もある。

 

わたしたちの人生は一生が四旬節みたいなものかもしれない。一生が回心と悔い改めの連続なのか?それしかないのか?と問われればそれは決して違う。四旬節はわたしたちの心の深奥に囁かれる愛の声に耳を傾ける為に雑音から耳を背け、神でないものに満たされそうとする心を方向転換させることを思い起こす期間である。

 

あの愛の声に耳を傾けることに集中し再び思い返す期間と考えるのならば、自分の価値が少なくとも神にとっては、イエスにとっては、一人一人が、比較なく、かけがえなく、尊いものなのだと気づかせていただける期間となる。それならば、四旬節な人生も聞こえによらずまんざらでもないと思うのだ。

 

神の思いによって満たされ、近づいてくださる神の国の福音に、わたし自身を開いていくことができる恵みを聖霊の助けと聖母の取次を願いつつ、四旬節を祈りと感謝のうちに過ごせたらと思う。