アドラー心理学に基づく勇気づけの研修(外部研修も)とカウンセリング、コンサルティングを行っています。
アドラー心理学による勇気づけ一筋40年 「勇気の伝道師」   ヒューマン・ギルド岩井俊憲の公式ブログ



おはようございます。アドラー心理学に基づく勇気づけの研修(外研修も)とカウンセリングを行う ヒューマン・ギルド の岩井俊憲です。

昨日(8月18日)は、近々対談をする一部上場企業のコンサル会社の社長の本を読んでいました。

私は、その会社の創業者の本をかなり読んでいて、そのDNAがしっかりと継がれているのを感じました。
徹底的に下調べをして対談に臨むつもりです。


さて、8月10日(土)のペルグリーノ博士歓迎パーティーでのことです。

 梶野 真さん(日本アドラー心理学協会 代表理事)が今年の6月に北米アドラー心理学会に参加した折にマリーナ・ブルフシュタイン博士(アドラーユニバーシティー教授)が私宛にくださった”Found in Translation” (Vol.3、北米アドラー心理学会)を受け取りました。

編集責任者のマリーナ・ブルフシュタイン博士Vol.1からVol.3まですべていただいたことになります。
ありがたいことです。

この本は、ドイツ語、ロシア語で書かれたアドラー心理学の論文を英語に翻訳した貴重な本で、今回は”Children and Education”がテーマです。

その中に何と、アドラーの妻 ライサ・アドラーの論文を見つけました。

論文のタイトルは「ソビエト連邦における児童指導(チャイルド・ガイダンス)」で、「注釈」欄にサビーネ・リヒェバッハ―博士(スイス・チューリッヒの精神分析家)が下記のように書いていました。

1917年のロシア革命は、人間性を解放する巨大な実験でした。
革命は、西側諸国の哲学者や詩人が「新しき人」を創造することをただ夢見ることしかできていなかったことを達成することを目指したのです。
革命のモデルは、完全に機能する機械でした。
「機械化」は、その当時の魔法の言葉でした。この目標を実現するために数千の研究所が新たに設立されたのです。
リフレクソロジーのような生物学、教育学、心理工学、心理療法の学校という軍の専門機関が活動を開始したのです。

アルフレッド・アドラーは〔革命直後の〕1918年から早くもボルシェヴィズム・イデオロギーから距離を置きました。
〔しかし、ロシア生まれの〕彼の妻のライサ・アドラーは、1930年代に彼女の長女のバレンティーナがスターリンの粛清の犠牲者になるまでユートピアの危険な幻想に魅了され続けていたのです。


夫のアルフレッドがロシア革命に幻滅していたの対して、妻のライサが1930年代までロシア革命後も幻想を抱いていたのは、驚きですね。

私の過去記事をもとに時系列にすると、アドラー夫婦のことが繋がってきますので、お読みください。

なお、原文に一部補足・修正・削除を加えているところがあります。


・2016年10月5日付けブログ ユングからアドラーが見えてくる(8):女性関係(3)

私のベストセラー『マンガでやさしくわかるアドラー心理学』(岩井俊憲著、星井博文シナリオ、深森あき作画、日本能率協会マネジメントセンター、1,500円+税)のコラム」に書いた「フェミニスト・アドラー」

マンガでやさしくわかる アドラー心理学
岩井俊憲、星井 博文,深森あき
日本能率協会 マネジメントセンター

アドラーは、1897年12月、この年の春に政治集会で出会ったライサ・ティモフェイブナ・エプシュタイン(1873年11月モスクワ生れ)と結婚しました。
ライサはユダヤ系のロシア人で、チューリッヒ大学に留学して動物学を専攻した後、当時、世界の政治・文化・芸術の中心地であるウィーンに遊学していました。

聡明で美人のライサは、よくぞ醜男のアドラーと結婚したものだと思います。

政治集会で出会った二人は結婚後、ヴァレンティーネ・ディーナ(1898年生れ)、アレクサンドラ(1901生れ)、クルト(1905年生れ)、コルネリア(1909生れ)の四人の子どもたちをもうけるのですが、アドラーはとても家族を大事にしていたようです。

ライサ夫人は、男女差別の激しい当時でも、アドラーが仲間たちと交わす議論に加わったり、急進的な思想を信奉していて、自分独自の政治・文化活動を行ったりしていました。

・2011年2月5日付けブログ アドラーと2人の子②   

1.エレンベルガーによれば、アルフレッド・アドラーは、彼が始めた個人心理学の未来をナチの台頭によってヨーロッパからアメリカに移そうとしていました。

その表れが1935年の「個人心理学ジャーナル」の発刊です。

1930年代には活動拠点をアメリカに置いていたアドラーは、健康状態も害していることもあって、ライサとアレクサンドラをウィーンから呼び寄せ、自分の身の回りの世話をしてもらおうとしていました。

2.長男(第三子)のクルト・アドラーによれば、家族の移民の理由は、彼の母親であるライサが共産主義者の支援組織の「赤い救急隊」で働いていた理由で逮捕されたため、アルフレッド・アドラーが妻をオーストリアから引き取ることを約束したことによるようです。

*『無意識の発見 下』(アンリ・エレンベルガー著、弘文堂)を参考に

・2016年10月12日付けブログ ユングからアドラーが見えてくる(9):晩年と死(1)

こちらは『アドラーの生涯』(エドワード・ホフマン著、岸見一郎訳、金子書房、7,400円+税)を参考にして。

アドラーの生涯
Edward Hoffman,岸見 一郎
金子書房

アドラーの晩年の話です。

1935年9月に家族(妻のライサ、長男のカート)をアメリカの地に迎えたアドラーは、家族と共に住んでも講義、診療、インタビューという過酷なスケジュールを変えませんでした。

彼は、アメリカで最も有名で最も謝礼の高い講師になっていたのです。

ワーカホリック状態で、咳の出る悪性の風邪に罹って咳には血が混じるようになっても、公的使命を帯びたアドラーは、休むことなくライサと共にヨーロッパに渡り、彼女をパリに滞在させておいて、4月からの連続ツアーの一貫でスコットランドに渡り、そこが最後の地になったのです。

・2011年02月3日付けブログ アドラーと2人の子①

『無意識の発見 下』(アンリ・エレンベルガー著、弘文堂)をもとに、アドラーの知られざるエピソードをお伝えします。

無意識の発見 下 -力動精神医学発達史
アンリ・エレンベルガー
弘文堂

アドラーの友人のフルトミューラーによれば、ライサは極度に自主性を持った意志の強い女性で、2人の関係は、最初のうちは限りなく幸福だったものの、やがていろいろと難しいことが起こってきました。

フィリス・ボトムは、このことについて次のような名文句を残しています。

「女性の解放のために闘うことと、自ら解放された女性と一緒に暮らすこととは、全く別の2つのこと」

果たしてアドラーの結婚生活は、幸福/不幸のどちらだったのでしょうか?

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