僕の感性

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2009年7月の記事 『渇愛と慈悲』

2019-08-07 15:18:40 | 
瀬戸内寂聴さんによると、仏教では、愛を二つに分けて、ひとつは「渇愛」、もうひとつを「慈悲」と言うそうです。

以下寂聴さんが話した内容です。

 渇愛というのは、私たち普通の人間の煩悩による愛です。それは砂漠の真ん中で喉が渇いた人が、お水をちょうだい、もっとちょうだいと悶えるように、「もっと愛して、もっと愛して」と言って、いくら愛してくれても物足りない愛ですね。
 それは愛のかたちをとっているけれど、とどのつまりは他を愛しているのではなく自己愛です。他を愛している自分の欲望を愛しているのです。非常に激しく、苦しみます。

 そして、渇愛の対極にあるのが慈悲。慈悲はあげっ放しの愛で、自分が愛した分を返しておくれという渇愛と違って、報酬を求めない愛です。

 寒さに凍える人を見たら、自分が着ているものを脱いでも、あげずにいられない。
 自分が食べなければならない食料も、自分より飢えている人にあげずにいられない。
 自分よりかわいそうな人がいれば、慰めずにはいられない。一緒に手を取って泣かずにはいられない。
 そういう愛が湧いてくる。これが慈悲です。慈悲の「慈」は、慈しみの愛です。「悲」は悲しいと書きますけれども、これは悲しいのではなくて、もっと切実な、自分以外の不幸な人を見捨てることのできない愛。思いやりの愛です。その二つの愛を合わせて慈悲といいます。

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 寂聴さんの話の内容は、仏教に深く関わるものです。けれど私たち普通の人が実践しなければいけないのが慈悲の心を持つということです。
 臨済宗の開祖栄西のもとに、厳冬の夕暮れ、飢えと寒さにふるえる一人の男が訪ねました。
「私の女房と子どもは、もう何日も何も食べておりません。このままでは私ともども餓死してしまいます。どうか、お助けください。もう、精も根も尽き果ててしまいました」
 栄西は何とかしてあげたいと思いましたが、手元には金銭も食べ物もありませんでした。やむをえず、薬師如来の御像の光料(箔にする打ちのばした銅)を手渡して、金銭にかえて一時をしのぐように言いました。

 マザー・テレサは子どもの頃、道ばたで寒そうに震える男の人を見て、家に戻り、何枚もの衣服を持ってきて、その男の人に与えたといいます。

 このように、慈悲のこころ、惻隠の情を持ち、困っている人を何とかしなければという気持ちは無くしていけないものです。そして貧困や病気、戦争などがどうしたらなくなるだろうかという知恵を持つこともとても大事なことです。
 
 
 
 2009年7月12日に投稿した記事をもう一度載せました。
 

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