志村けんさん、不仲だったいかりや長介さんを堂々告白していた!視聴者も目にした「下克上」 | kyoucomのあることないこと

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 3月29日に70歳で亡くなった志村けんさんを
偲んで、テレビでは「ザ・ドリフターズ」
時代の映像が繰り返し流されている。
志村さんはグループのボウヤ(付き人)を経て、
24歳で「ザ・ドリフターズ」に加入する。
メンバーでは最年少であったものの、
徐々に頭角を現していく。その過程で
リーダーであり、2004年に72歳で亡くなった
いかりや長介さんとの確執が取り沙汰された。

 いかりやさんとの確執については、
志村さん自身が2016年に出演した
『ダウンタウンなう』(フジテレビ系)の
人気コーナー「本音でハシゴ酒」で
告白している。この様子は、4月3日放送の
同番組においても追悼特集が組まれている。

 志村さんは、ギャラの配分を巡って
いかりやさんに不満を抱いていたようだ。
1974年当時で月50万円と高額なギャラを
もらっていたものの、ドリフは1回の営業で
1500万を稼ぐ大スターだった。そのため、
全然金をもらっていないと不満を抱くように
なったようだ。当時のドリフのギャラ配分は、
いかりやさんが6、残りの4人のメンバーが
1割ずつであったため、志村さん以外の
メンバーも不満を抱いていたようだ。

 さらに、ドリフの名物番組と言えば、
1969年から1985年まで断続的に続いた
土曜夜の生放送番組『8時だョ!全員集合』
(TBS系)である。この番組は、1981年に
スタートした裏番組である『オレたち
ひょうきん族』(フジテレビ系)に
視聴率で追い上げられて行く。
「ひょうきん族」はご存知の通り、
ビートたけし、明石家さんま、
島田紳助さんら、後のテレビを席巻して
行く芸人たちが集ったスター番組であった。
芸人の「世代交代」が起こるのは
必然であったと言えるだろう。

 「ひょうきん族」の追い上げが強まると、
それまで企画会議の中心にいたいかりやさんが
「疲れた」「休みたい」と口にするように
なる。これは、いかりやさんにとっては
口癖のようなものであり、改めて頼られる
ことを望んでいた。ただ、周りのスタッフや
メンバーは、人気のあった加藤茶と
志村さんを押し出した企画を作るようになり、
いかりやさんを失望させたとも言われている。

 かつてギャラに対し不満を抱いた
最年少メンバーが、図らずも人気、
実力ともに、リーダーであった
いかりやさんを越えてしまう「下剋上」が
起きた瞬間である。こうしたお笑い史の
流れを、視聴者の立場から感じ取っていた
者も多いのではないだろうか。
それだけ志村さんが偉大なコメディアンで
あった証明でもあると言えるだろう。
[リアルライブ]

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ドリフのコントの中で時折

いかりやさんへの

不満を漏らすシーンがあったが

あれはリアルだったのだと

いかりやさんは晩年は役者として

評価されていたが

志村さんはジリ貧だったかも

レギュラー番組の「志村どうぶつ園」も

視聴率は頭打ち

司会業が出来るわけでもなく

ギャグもマンネリ

亡くなった今でこそ偉大なコメディアンと

評されるが

それ以外では・・・

以上