先延ばしする間に人生は走り去る(哲人セネカ)
一生空しく過ごして万歳悔ゆることなかれ(日蓮)
擦り切れ色褪せた大学ノートが手元にある。
22歳になったばかりから23歳過ぎまでの頃の日記だ。
中を開くと、鉛筆で書いたせいかそんなに古ぼけてなどいない。
まるで昨夜刻んだ文字のように心に届いてくる。
読み返すと所々全く忘れてしまっていたが、ほとんどは当時の状況がありありと思い出せる。
これまで読み返すことなどなかった。
休日の昼下がり、何気なく目を落とすと青春時代の激動の日々が克明に綴られていた。
恋に友情にはたまた宗教に身を入れ頑張っていた姿が思い浮かぶ。
青春期特有の悩みに翻弄され、喜びと悲しみ、希望と挫折の連続だったことに気づかされる。
日中は運送屋で働き、夜はまだ身が入らなかった店の仕事という日常。
遊び惚けて店の仕事を放り出し、当時現在の自分より若かったお袋とはいえ、随分迷惑をかけていたことを思い知る。
だが、これからの人生を必死に模索していた。
自分で言うのも何だがいじらしいほどに。
そして少し落ち着きと余裕が出てきたとはいえ、今もあまり成長できず、同じような事で悩み、路頭を彷徨っている。
孔子の晩年のことばではないが、通り過ぎてきた季節が、「 子曰く、吾十有五にして学に志す、三十にして立つ、四十にして惑わず」(私は十五才で学問を志し、三十才で学問の基礎ができて自立でき、四十才になり迷うことがなくなった)とはいかず、つい先ごろ迎えた「五十にして天命を知る」(五十才には天から与えられた使命を知り)とは幻影に過ぎず、間も無く迎える「六十にして耳順う、七十にして心の欲する所に従えども、矩を踰えず」(六十才で人のことばに素直に耳を傾けることができるようになり、七十才で思うままに生きても人の道から外れるようなことはなくなった)とは夢の中のまた夢の事のように思われるのである。
ただ、まだ人生の途上の状況がどうあれ、周囲に振り回されず、若き頃より抱いていたはずなのにいつかそれによって引き摺り落とされた理想を思い出し、1日1日を真剣に丁寧に送りたいと願うばかりなのである。
それに短命だった昔のせいか、孔子は80からどうあるべきかは言及しなかった。
そうだ、人生の最終章は未定なのだ。
そこまで生きられるかどうか、さらに先があるかは分からなくとも、だからこそ未知の可能性を秘めている。
ここまでの人生を振り返ると、ものの見事にあっという間だった。
若さと老い、生と死も透き通った薄皮一枚の差だと思える。
同じように能力や脳力、人格や可能性もそうではないか。
しかるにその一枚の膜の中にすべては収まっている。
臨終只今の精神に鬼気迫るものを感じる。
でも今はひと時、外は殺人的な酷暑に引きこもりの涼しい部屋で「あの頃」という日記を読みながら懐かしい歌を耳にしていよう。
「今頃」と一人呟きながら。