書くことは考えること。
書くことは人を確かにすること。
書くことは生きること。
など「書くこと」について様々に定義されている。
文科省の資料を参照すれば、各学年期における目的や内容、「こうあらなければならない」といったことが事細かに記載されていて、私などは見るだけで書く気が失せてしまいそうだ。
たとえばこのブログ、そんな定義を念頭に置きながら更新するなど、それでさえ更新が滞っているのを輪をかけて歯止めになるというものだ。
ここで思い出したことがある。
あれは40年ほど前の夜間高校時代に、学内で毎年挙行されていた「生活体験発表」なるものがあった。
ひょんなことから私が学年代表に選ばれて原稿を書き上げ、それを担任の教師に提出した。
その際、書き直しを命じられ、しかも自分の原稿を見ると、いたるところに赤ペンが引かれ、ばつ印で訂正されていた。
私はその時、ひどく打ちひしがれ、憤りさえ覚えた。
教師にすればより良い原稿にするつもりだろうが、私にとっては自分やその体験内容が否定されて打ち消される思いがし、言われるがままに書き直してしまえば、それはもう私の文章でもなければ真実の体験でもなくなってしまうと感じたからだ。
「ただノートに向かうのよ。あなたがそのときいる場所から始めるの。書き始めれば、なにかが向こうからやってくるわ。ちょうど電気のスイッチを入れるようなものよ。流れはそこにあって、動き始めるの」(『あなたも作家になろう』ジュリア・キャメロン/風雲社)
自分独自の流れや動きがせき止められ、断線状態にさせられたみたいだった。
書くことはもっと自由であっていいはず。
停留し淀みがちな内面に、新しい流れの清水を流し込み、その分汚水を流れ出させる。
創造性の泉は絶えずアップデートしなければ枯渇してしまう。
そのためには堅苦しい定義は抜きにして、とにかく今ここの場所から見える景色を、内面からにじみ出る清水を文字として書き起こしていくことが重要なのだ。
文字はその人が素直であれば心そのものになる。
文法上や文脈のつながりなど多少誤っていようが、誤字脱字は愛嬌とばかりに勢いやその一瞬を捉えた流れで書いた方が、綺麗にまとまった作文より読む人やのちに読み直す自分に与えるインパクトが大きいのは経験済みのことである。
また、つい格好をつけたがるのも心だがそれを 差し引きすれば自ずとその時の素っぴんの己が表出しているものである。
その際のヒントやテクニック、ポイントが前述の本に書かれてある。
「朝に書くとその日一日が豊かになる。夕方に書くとすでに終わった一日を振り返ることになるので、変化を起こせないのだ」(同)
「起き抜けに書きだすのが望ましい。無意識の自分をつかまえ、まだ気づいていない自分の考えを記録するのだ」(同)
朝、起き抜けはまだ残っている睡眠中の無意識に繋がりやすいチャンスタイムなのだ。
書くことが空から舞い降りてくるという。
その表現も言い得て妙なのだが、私の感覚では潜在意識、すなわち宇宙と自分もひとつなのだから、潜在意識から湧き出してくると言った方がピンとくる。
潜在意識は宇宙であり、無限大の泉、何もかもを知悉しているものだから、そこから誰もが宇宙的天才とも呼ぶべき才能を発揮できるはずだと信じたい。
ブログも義務的になれば面白くない。
決まりごとに縛られて書かなければならないならストレスにもなる。
もっと創造性の自由の翼をはためかせ、大空を駆け巡り鳥の視点で飛んでいられれば、これほど気持ちの良いこともない。
書くことは楽しみになり、きっと本来は人に備わった遊びなのだ。
たまにするより毎日更新する方が容易いはずなのになかなか習慣化できないのを寝ぼけ眼でまだ頭が決断できないうちに唯一アクティブな潜在意識を頼りに作業に取り掛かり、ブログを更新できればと切に願う。
書くことが宇宙の力即自力を借り、内面へ宇宙へと旅立つ方途となる。