琵琶湖沿いに車を走らせて、あのカーブを曲がるとすぐ先にその店はあった。
囲炉裏のある喫茶店。
今ではすっかり観光名所となり、若者を中心に人で賑わう有名店になっている。
当時は、湖岸にひっそり佇む静かで趣のある粋な店で、そのくせ客は驚くほど少なかった。
琵琶湖が深呼吸する頃、年老いた男があの場所に立ち、湖面の動きを司る風に幾十星霜の時の流れを観る。
湖底に沈んだ息苦しく冷え切った過去を、表層に近づくに連れ次第に緩みゆく浮き草のような人生と織り交ぜ、生まれ変わらせようとしていた。
比叡おろしの風は山から下りる。
対岸の琵琶湖西側に、日本海との壁のように連なる山嶺は、丁度真ん中で割ったように、左側が比叡山、右側に比良山地と続いている。
関西のアルプスと呼ばれるくらい、日本海から吹く寒気による積雪が、壮観な眺めと神秘的な美を演出していた。
そして、毎年冬の終わりに新鮮な酸素を十分に含有した雪解け水が、酸素不足の深い湖底に届き、すべてを生き返らせる「琵琶湖の深呼吸」を誘引する。
標高一千二百十四メートルの武奈ヶ岳を筆頭に、比良岳、打見山、蓬莱山など一千メートル級の山々が立ち並んでいて、そこから一気に琵琶湖へと急斜した断層崖が、早春に、比良八荒と言われる荒々しい季節風を吹き下ろす。
しかし、この頃、晴れた夕暮れの景観は圧巻で、『比良の暮雪』として、近江八景図の一つに数えられている。
『雪晴るる比良の高嶺の夕暮れは花の盛りにすぐる春かな』
近江八景図の選定者、命名者である江戸初期の公家近衛信尹が、自らの水墨画へ添えた和歌である。
寛永の三筆といわれた文化人をして、その筆を取らせたほどの美しさと言えよう。
現在なら、春先に、琵琶湖大橋付近の菜の花畑から、カメラを構える大勢の人々の姿を見かけるが、まさにこの歌の心境を実感するに違いない。
もうじき、その風が吹こうとしてた。
湖面の咽んだ蒸気が込み上げて、見せかけの過去と現在を重ね合わせ、春を告げる風音にじっと耳をすませる人にへと。