巷でよく言われる「目的」を設定して逆算し、行動に落とし込むというのがある。

例えば、1冊の本を読み終わる日を決めて、それに従い1日何ページ読むかを決める。


しかし、私の場合これでうまくいった試しがない。 

その原因を探ってみると、読書のための時間が仕事や雑用、来訪者の介入などに左右されて、毎日同じように取れるとは限らない。


ましてや、1日10頁読むと決めたそれ自体がやる気を失いやすい。

人それぞれ、その日によって体調や集中力が異なり、ページが進まない時や、逆にフロー状態になって調子よく速読できる日もある。


そんな風にしていつしか逆算した行動の意味がなさない時が必ず来るというのが実感である。


ではどうすればいいのか?


これはもう日々を積み重ねていくしかないと思える。

今を生きる、と言えば大げさだが、今日できることをできるだけ今日のうちにする。

言い換えれば今日できることだけしかしない。


当たり前のようだが、その果実として「習慣化」という魔法がかけられる。

習慣化はしめたもので、物事が努力なしに面白いほどはかどるようになる。

私の体験では、これまで本などほとんど読まなかった人間が、月に4、5冊は読めるようになり、その上、通教の学習も微々たるものではあるが進捗するようになった。


敷衍するが、誰もが知っているお釈迦さんの因果の話がある。

簡単に言えば、原因があって結果が出るというものだ。

物事には必ず何かの原因がある。

そこに縁とかが関わるのだが、今回はそれを無視して話を進めたい。


因果論とは別に、お釈迦さんは「因果倶時」を説いている。

つまり、普通は原因と結果には時間差があるのだが、この場合原因の中に結果が内包され、結果は原因に即して一つのもので、両者は切り離すことはできないというものだ。


要するに原因と結果というものは必ず一致し、現在の結果を知ろうとすれば過去の原因を見ることであり、未来の自分を知ろうとすれば、現在の姿を見ればよいということになる。


したがって、常に今自分が何をしているかということが、未来の自分の姿にそのままつながっている。


一念三千とは、今この瞬間の自身の一念の中に、諸々の法、現象が具足しているということだ。




蓮のように実と花が同時に現れる。

原因と結果が時を同じくして。

見えない結果が実は既にそこに存在している。


そのことを思えば、よくも悪くも習慣化や日ごろの何気ない一念の重要性に思い至る。


そんな人生の過去、現在、未来を思い通りにコントロールするのも、この一瞬の生命のあり方次第だと。