毎年この時期になると、開け放った窓から厨房に心地よい風が吹き抜ける。
仕事をしていても気持ちよく、リズムに乗ってテンポよく、ことが進む感じになる。
このブログだって、毎回1時間位かけて書いているのだが、こんな日は同じ時間で倍書けるか、半分の時間で書き上げられる気にもなる。
最近はiPhoneの音声入力を利用するようになり、これを使い始めると止められなくなる。
考えてみると、昔は日記や手紙などの文章を書くとなると、筆記でしか手段がなかったのが、ワープロやファックスが登場し、パソコン、ガラゲー、そして今やスマホとなった。
スタッフの十代の子の話を聞くと、パソコンもほとんど使うことなく、何か読むのも書くのも、ゲームや動画、音楽を楽しむのもスマホ一台で事足りるらしい。
アプリも進化し、最近ではそれを使って大学のレポートを書いたり、私が信を通わせる通信大学も、時代に合わせて今やレポートをはじめ各種書類を提出するのさえワンプッシュで送信して終わりといった塩梅だ。
心をくすぐる春風は、東の方向から海を渡り山を越え、町を撫でては厨房を吹き抜けるが、ありとあらゆる情報は四方八方宇宙まで、年がら年中飛び交っている。
既に実現している情報や光、粒子だけではなく、そのうち物質や人間までが瞬間移動、テレポーテーションが可能になる時代が来るのも、さもありなんという気がしてくる。
そして鍵を握るのがAIであることも誰もが認知している。
既にモノのインターネット化IOTが私たちの暮らしに侵食し、アレクサやSiri、Googleなどが便利さをさらに助長し、もはや部屋の電気をつけるのにしぶしぶ起き上がって紐を引っ張る必要もない。
そして知識は頭に入れるものではなく、コンピューターの中から随時必要に応じて引き出すものになった。
近いうちに車も完全自動運転になり、ハンドルやペダルがメーターパネル側や足元に格納され、広々したスペースでドライバーは足を伸ばし、ただの乗客となる。
もはや人間は、考えて行動する必要がなくなるのではないかと危惧するのは私だけではないだろう。
これからは人間にできてAIにできない事はなくなるどころか、人間には不可能なことがAIがいとも簡単に成し遂げてしまうようになると言うのか。
そうなると、もともと依存心が強く、楽をしたい怠け者の人間は、めんどくさいことや努力を必要とすることをAIに任せ、体を動かさず、考えることさえ億劫になるのではなかろうか。
しかし、どれだけテクノロジーが進化し、人工知能が社会を動かす(犯す?)ようになっても、人間にしかできないことが必ずある。
そして最も大事な事は、人間が人間のために、人間による、AIの恩恵を享受していくということだ。
自動殺傷ロボットなどを絶対に作ってはならない。
SF映画のように、人類がAIに支配され、神の座を手渡すような愚かな真似をすることなどないと信じつつも、忘却してしまったパスワードでは良心の故郷に戻ることは決して不可能となる。
不可逆的な利便性は、可塑性をしのぐ。
環境に合わせて変形したのに、その形を力尽くで元に戻したり、人を原始へと退化させる可逆性へと向かわせる。
こうなってしまえば、おちおちと春風を享受する幸福感も何も無くなってしまうだろう。
人は死んだらどうなるのか、いつまで生きられるのか、それと同じで、謎を解き明かすのはここまでと、人は見てはならない、知ってはならない領域がある。
見なくてよい闇が。
可能性だけをちらつかされながら、希望を足がかりに日々を重ねていく。
そんな今が一番良い季節なのかも知れないと思う。
薄曇り空が広がる書斎の窓から、ちょうど良い風が入ってくる昼下がりに。
透き通る青空が欲しい。
少年の夏の日の草の香り。
瞬く睫毛の先の蜃気楼。