生きてることは楽しむこと。

だからほんの些細なことにも喜びを感じられたら幸福。

例えば賄い。
スタッフに焼肉以外の賄いは滅多に作らないが、たまたま前日作ってあげた炊き鍋が旨かったらしく、アンコールに気を良くして再び。





今回も良き店長をアピール!
これで募集中のバイト10人くらい応募来ないかな?
と訊くと、美味しそうに鍋を頬張ってたスタッフたちが一斉に間違いなく来ますよと。
天邪鬼の私は逆にまったく、信じられなくなった。

あ、そうそう、前々から、もう10年近くになるのではないかな、ずっと温めていたセット「賄」をいよいよ発表しようと思っている。
その内容は、いつも賄いに使っている美味しいけれど商品としては形とかかたさとかで省かれている隠れた肉や、その日の材料で足跡で思いついた一品、そして食べ放題のライスやスープ。
そんなもので構成されていてお値段は4980円でどうだろう?

今夜にも提供するつもり。

話はごろっと変わり、いつも感謝していること。熱い店があり、暖かな家があり、思索や夢を温める書斎がある幸福。

これは何にも代えがたい、今日まで私だけではなく亡母や家族、店のスタッフや誰より数多のお客様、また、スティークホルダーも含めて関わりのあった様々な人たちのお陰であるわけだ。

人生は創作。

小説のように多くの登場人物なしでは物語は語れぬ。

作者は他でもない自分。
したがって思考のコントロールが必須。
感性も重要な役割を果たす。

肝心なのは、ポジやネガ、どちらも否定せずに目的とするところは同じだと悟り、どんな時にも、いかなる最悪の状況からも立ち上がれるのだとの確信を持つことだ。

病により死んでも本質的には負けなかった人生を送りたいではないか。

その癖、狭小な日常、ニッチもサッチも、ちょっと油断するとダラダラ過ごしてしまいやすい。

世界が感心する日本人特有の「もったいない」の概念は時間のために1番にあるのではないか。

原因を探るとこれまたしょぼい。
けれど、誰もが体験済みなことではなかろうか。気の緩みはこうして起こる。
夜中にYouTubeなんかをつい観たりしたら最後。
興味の湧くものを次々と紐付けられて見させていく手法に嵌められ、抜け出せなくなる。
まるで魔術にかけられたように。
AIにしてやられたり。
これから益々そうした傾向は多方面に表れることだろう。

そこでふと思い立つ。

反対にこれを利用して人間を良き習慣、ベクトルへ向けて行くのも可能なはずではないのかな?

人間のための人工知能を学習して生活に生かす手管はないものか。
脳を良き意味で誤魔化す。 

そもそもこの世界自体、あると認識しているけれども、VR仕様、錯覚なのかもしれないのだから。

ところで、AIの本質とはなんだろう?
「AIとは人間の代わりにコンピュータが能動的に知的な作業をする技術」
これすらも既にAIを利用してググるとそれらしき答えがいくつも表示される。
機械学習と呼ばれ、人間があらかじめ設定しなくても、無限数とも言うべきデータから知を拾い自ら答えを出す。
したがって、人工知能というよりあくまでも、機械知能なのだ。
人間知能の手足となって人間を助ける従僕であり手段に過ぎない。
それが囲碁や将棋の対戦を見るまでもなく、人知を超え、変えゆく片鱗を見せているからややこしいし、人との関係がぎこちなく、便利で安心できる将来が見えづらく、サイエンスだけが先走り、そもそもの哲学的な地盤が脆そうに揺れ動いているのである。

「生活の為の仕事はAIに任せて、人間はより自分の『好き』なことを追求していく未来が訪れる可能性も高いです」

これには少し心動かされ、なるほどと思った。
仕事も生活面もどんどん便利になってAIが代行し、空間的時間的余裕も生まれるだろう。
週休3日はおろか、週休4日や5日、あるいは週一だけ、たまに数時間だけ働いてもやっていけるようになるのかもしれない。
そうすると人は勝手なもので暇を持て余し、生きがいを喪失し、生きる意味を見失ってこの世とおさらばしたくなるのかもしれない。

それに人はどこかAIに神的役割を求めたがっているのが見え隠れする。
宗教よりも高度な科学と哲学を融合、合致させたAI教が誕生するかもしれない。
宗派も派生し、AI仏教やAI信教、幸福のAI教なるものなどが人心を掌握するかも知れない。

結局のところ、AIとは何かは、人間とは何かと同義語なのではないかとの着地点を得る。

いやはや目まぐるしくすごい時代が来たもんだ。
これから先どうなって行くか、良くも悪くも興味津々であり、もう少し見届けてから、多分AIでもまだ突き止められていない彼方の世界へ逝きたいものである。