ちょっと近所を散歩といった気軽な感じ、ミニマムな山登りとでも言えば良いのか、そんな山がある。

 

山というより小高い丘陵。

申し訳ない程度に盛り上がった場所とでも言えようか。

 

米原の最南端に位置する磯山である。

 

 


何度か車のハンドルを切り返さなければ入れない、愛車のCUBEで車幅ギリギリの小道に強引に突っ込み、磯崎神社の駐車場に停車した。

 

 

 

 

引っ切り無しに車が往来する県道の向こうには、どこよりも広大に見える琵琶湖が鉛色して、風と波の音を交えながらざわめいていた。

 

 

 

真新しい石碑も建立されていた。

 

 

遊歩道案内図を確認すると、まだ歩いていない道もあり、時間のある時に巡ってみたいと思った。

 

低すぎる山だから、一旦稜線に出ると、ほとんどアップダウンをせずに快適に散歩できるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

ところで、前回訪れたのはいつだったっけと、過去ブログを検索すると、2013年4月だと。

 

何と7年近くも前になる。

 

確かまだ元気だった亡母と来た気がする。

 

しかし、とてもそんなに経ったとは思えない。

若い時と明らかに異なる時間感覚のズレ。

 

 

 

石段手前の杉の大木の樹齢と比べ、その長い歳月から見れば、人の一生なんて秒速と変わらないのかもしれない。

 

 

長い長い登り坂と思っていたのが、上り詰めて行くと案外、短かったことに唖然とする。

 

 

 

 

九十九折の如く曲がりくねった道を何度も、躓き迷いながら歩いて来た。

 

 

分かれ道、別れ道を選択しては、新しい景色と出会い、もしかしたら見たかも知れない景観を捨ててきた。

 

例えばここは、正規らしきコースを外れ右に曲がる。

 

 

でもどこかにある気もする。

 

 

選ばなかった道を歩いている別の自分がいて、無数の別次元のパラレルワールドが絶対にないとは言い切れない。

 

 

登り始めてほんの数分で、思わずマザーレイクと叫びたくなる美しい風景が目の前に広がる。

 

 

 

視界の右端には竹島、左端には奇跡的な光に包まれた沖島が映る。

 

 

 

烏帽子岩に砕けて散る小さく白い波飛沫が目に優しい。

 

 

 




そこからすぐ上にちょっとした広場がある。

7年前に来た時は春の陽気に包まれて心地よかったが、暖冬とはいえ大寒の今日は流石に肌寒い。
 
湖面から吹いてくる風に足元を震わせながら、ちょいとウォーミングアップと軽く筋トレ。
 

 

 

 
わずか12回の腕立て伏せを終えて顔を上げると、7年前はまだ新しく、ライトでナチュラルな色だった拝殿が、琵琶湖からの風と湿気で染められたかのようにダーク色して荘厳な美を醸し出し、時の重みを伝えていた。
 
 
 

 

時は止まるものなのか、それとも飛び去るものなのか。

 

多分、それら両方であり、そもそも時間なんて本当はなく、人間が都合により勝手に作り出した幻想的概念に過ぎぬのかも知れない。

 

 

 

地元の人が建立したであろう小さな鳥居を潜ると、頂上へと続く山道が始まる。

 

 

 

 

これほど苔むす道が続く山は珍しい。

 

 

人があまり歩かないからなのか、それともあまりに美しい苔に遠慮して、人が避けて歩くからなのかは分からない。

 

 

 

あの時は光溢れる明るい道だったが、曇り空の今日は苔の感触ばかりが足下から伝わってくる。

 

まだ若く、蒼く明るく永遠の中にいた頃はすべてが新しい経験となり、ゆったりと時が流れていた。

 

だけど、あらゆることを良くも悪くも味わってしまった今、時は信じられないほどの速さで、成長できないままの私を置いて、ただ過ぎ去るばかりの感がする。

 

 

 

 

最後に現れた小高い丘を登って行く。

 

本当にあっという間の人生なのだ。

しかも還暦間近ともなれば、もう後戻りはできぬばかりか、山の中で熊か虎に追いかけ回され、崖っぷちで死の谷へと飛び込むか、開き直って猛獣と闘うか、2つにひとつに追い込まれたかのような様相。

 

ならばら一か八か困難や苦難にたじろがず、向かって行くしかないだろう。

 

して、この先一体何と闘うのか?

自身の中にある虎や熊とは何を示唆、比喩するのだろう。

 

頂上に辿り着く。

 

 

 

今度は湖北まで丸見えだ。

 

 

さほど体力を労せず、これほどまでに充足感を与えてくれる山は珍しい。

 

それは低山でありながらも、この壮大な琵琶湖の景色によるところが大きい。

 

 
 
 
 
 
 
頂上周辺を散策し、三角点にも愛想程度にタッチした後は、下山するのみ。
 
 
 
日没間近になり、磯山はより静寂に包まれる。
 
 
駐車場近くまで来てはっと気づいた。
 
この山1番とでもいうべき杉の大木が立ち枯れしているではないか。
 
 
木肌を思わずさすっていた。
 
 
ここまで何百年も生きてきて、何故今頃枯れてしまったのか?
 
自分でも不思議に、こみ上げてくる憤りの矛先を探していた。
 
 

 

人生の賞味期限が迫っていることを知悉せよ。

そう自分に言い聞かせてみる。

 

が、そうしたところでも齷齪せぬ己の図太さにこそ齷齪する。

 

見果てぬ夢を見たまま、夢から覚めぬまま、夢の中で人は死んでいくのだろうか。