過ぎ去れってみれば、あっという間の人生。
されば言わん。
今は今しかない。
光り輝く青春は2度と戻りはしない。
待っていては遅すぎる。
今を逃すな。

何故か知らないけれど昨日、店を開ける前の夕方に突然、1984年に上映された映画『Wの悲劇』を再び観たくなった。

潜在意識では何某かの意味があるのかもしれないが、記憶の奥から急に訳もなく浮かび上がってきた感がした。

登場した時から登録しているNetflixを探してもなかったので、Amazonのプライムビデオの有料版をネット配信してもらい、仕事始まりまでのわずかな時間で心に残ってる共感や感動したシーンを早送りしながら途切れ途切れに鑑賞した。

世良公則演じる青年が、彼の行きつけの居酒屋で、彼が恋してる、オーディションに落ちて落ち込んでる役者志望の薬師丸ひろ子演じる女性に飲みながら慰め励ましている場面。

後でわかったことだが、その彼もまた昔、役者を目指していたのに途中で諦めたことを、自分の話としてではなく、友人の話として語りはじめた。
当時未だにデビューのきっかけも掴めない自分と違って、才能を買われ、映画や舞台出演のオファーが来だしてデビュー直前のそのまた友人が突然の事故で亡くなった時、悲しくて、他の仲間と一緒に泣きはしたのだが、何処か覚めているもう一人の自分がいることに気づき、それがトラウマのようにその後ずっと、何をしていてもその存在によって心から楽しんだり、悲しんだりできなくなってしまった。

こんな話をしていたシーンが、まだ人生経験が浅く、何も知らなかった22歳の時に深く心に染み入ってきて、人間心理の断面を見たようで、今も忘れないでいた。

そしてもう一つの感動的なシーンはラスト。
彼と彼女の別れ方。
正確なセリフではないかもしれないが、だいたいこういう感じ。
彼の仕事場に訪ねてきた彼女が言った。
「今私は心も体もボロボロ。すぐにもあなたに縋り付きたいけれど……」
「そうしてくれよ」
彼が祈るように小声で呟いた。
「でも、できない……。そうしたらもっと自分がダメになっていく気がして。あなたはもう一人の自分が嫌で夢を諦めたけれど、私はもうしばらく、もう一人の自分と付き合ってみることにしたの」
そして続け様にこう言った。
「もう一人の自分が言ってる。今は泣かないで笑う時よって」
今にも泣き出しそうな顔で笑顔を必死に作る彼女。
「じゃあ」
そう言って彼に背を向け歩き出す。
その背中に、彼は精いっぱいの拍手を送る。
そう、出会った時、他に誰もいない早朝の野外ステージで、女優になるために生まれ変わる意味合いもあり、処女を捨てた朝帰りの彼女が一人、劇のワン場面を演じた時に、偶然ベンチに寝そべっていた彼が起き上がってしたように。

彼女が振り向く。
そして片足を引きながら腰を徐々に低くし、と同時にスカートの両袖を持ちポージング。
今にも泣きそうな笑顔がカメラでクローズアップされていく。
もうこれ以上、表情にその複雑で、甘さと厳しさ、恋しさ、悲しさ、そして見果てぬ夢へと流れていく心、そんなさまざまな思いが交錯するのが垣間見えないと思えるその刹那、カメラがピタリと止まり、すべての動きが途絶えた。
一瞬が永遠に変わる。

何より、あの頃の感動がそのまま蘇った我が心が嬉しかった。
やはり若き時に感動したことは本物だったのだと。

その後店に入り、出勤してきたばかりのまだ十代の男女のスタッフに、よせば良いのにこの話をしてしまった。

悲しいかな。
当然の如く薬師丸ひろ子も知らなければ、世良公則が誰かも知らない。
ああ、無情。
親父の悲劇。

私に取ってはついこの前の気がするのに、現実には36年もの歳月が過ぎ去っていたのだから仕方なかろう。
あの当時でも36年前と言ったら戦後間もない1948年。
同輩諸君よ、そんな年代の映画なんて、ほとんど観たことがないよね。
スタッフたちに取ってもそんな映画なのだよ。

ずっと心に秘めていく映画となった。