幾分涼しくなった繖山に登った。




山の上、もみじが紅葉し始め、鳥が運んだか、丹波栗はたわわに実り、秋を感じた。





夕方、心配して、下山しましたかと高橋さんからメール。

今後も、そんなお友達を大切にしたい。

若い頃と異なり、どこかへ遊びに行こうかとか、飲みに行こうなど、そんなお誘いは少なくなった。

女子会ならぬ、男子会、いや、それもおこがましい、おっさん会を時々している。

友好関係。

ただお茶をするだけならあれだけど、いざという時に互いに助け合う、励まし合う、何かできるわけではないけれど、取り敢えずそばにいる、そんな人生にとって大切なもの、友情こそ人生の宝。

ところが、歳を取るほどに、友好関係が築けていない、または続ける努力をしていない状況になりやすい。

理由として出不精もあるかも知れない。

自分など、普段店で人に囲まれているからか、休みには一人山に出かけ、孤独になることがマインドフルネスのようになっている。

自然に溶け込むというより、自然を取り込み、自分の内側が外側になる瞬間、大いなる何かとシンクロして心が震え、心底癒されていく。

真理はそこにある。

自由に利用はできないけれど、常にそこにある。

友情も同じく、こちらから連絡しないと離れたままなだけだ。

時に面倒にも感じる。

他にすることがあると思い込む。

開け放つ、明け渡す。

殻に閉じこもった己を解き放つ。

そのきっかけになるのが山登りの気がするのは私だけではなかろう。

価値判断をする。

その上で偶然も必然になる。

シンクロニシティ。

心理学者ユングが提唱した意味のある偶然の一致。

人と自然の間にもある、というより対峙していながら一対の関係。

そして人生も芸術。

創作はいつも神がかりなのだ、きっと。

残酷なのか、慈愛なのか、山の中でも自然淘汰もあれば、弱肉強食の世界も垣間見られる。



セミヤドリガの幼虫に寄生され(白い綿のような部分)、なおかつカマキリのカマの餌食となったセミ。



凄いなと思った。

何がって、自己犠牲のようなセミが。

わずか1週間か10日の成虫となった命の中で、多分、子孫を残して尚且つ、他の生命の糧となった小さな体の大いなる命が。

きっと大いなる生命に繋がって役割を果たしたのだと。

一瞬、助けようかと思ったが、逆に自然を汚す気がしてその場を立ち去った。

10日でも100年でも同じなのだ。
宇宙生命から見ればほんの一瞬の出来事。

何をし、何を残し、生命を燃焼させたか。

燃える夕陽が琵琶湖対岸の山へと沈む頃、下山を終えた。