川松真一朗の「日に日に新たに!!」

川松真一朗の「日に日に新たに!!」

川松真一朗が日々思い感じた事を記していきます。主に日本政治、ラグビー、相撲。それ以外にも、書きたいことは何でも。東京都議会議員、都議会自民党報道室・事務総長。ジョージタウン大学日米リーダーシップブロクラム修了。

早いもので1月も半分を過ぎました。
中央政界は激震走る展開が連日続いてます。

各派閥解散の報が届き、政治の変化を感じています。


新年に立てた目標の解説記ブログを前回に続いて。
前回)自分が目指す政治家としての未来は?


今日は2つ目として、⑤信頼回復について。

厳しい自民党への風
今、1月になってから新年賀詞交換会などの場で、連日多くの皆様から現在の政治に対する不満、お叱りを頂いているのは事実です。いわゆる派閥の資金問題だけでなく、岸田政権の経済対策など日頃の政治不信などから複合的に厳しいお言葉が寄せられていると感じています。コロナ禍を乗り越えたものの、ウクライナ情勢など世界環境によるエネルギー高や物価高に苦しんでいるというトンネルが抜け出せない中で、突然「派閥の裏金問題」といったタイトルで連日報じられれば、誰もが政治不信になるのは当たり前だとも思います。

この間、橋下徹氏や泉房穂氏のように鋭く批判される方がいて、その言を聞いた人は更に怒りが増長されたり、ウンウンと頷くわけです。とりあえず、当該資金が「政治資金か否か」という議論、「収支報告に記載されているか否か」など様々な観点の議論が混ざり合って、批判されているのも事実で1つ1つの疑念を政治に携わる全ての人間が有権者に向かって発信していかなければならないのではないかと考えています。

そして、政治資金規正法というものへの理解も、国民全体のコンセンサスを得たものではないということもこの数ヶ月の動向を見ていて感じるものです。私は前回のブログでも書きましたが、日本大学法学部で岩井奉信ゼミに在籍していました。岩井教授は「族議員の研究」の著書があるなど「政策決定過程論」が主の専門ですが、メディア出演時は「政治資金」の専門家としてコメントされています。それ故、当然私も恩師の下では、大学卒業後もテレビ朝日の報道に携わる者として、時折、「政治資金」について研究を進めてきました。テレビのコメンテーターらも前提が分からず喋っているなと思うことがあります。その前提とは、当該法律は「規正法」であって「規制法」ではないという点です。

たしかに、各議員事務所等を運営する政治団体の収支報告ですから、企業の決算・税務報告と同様の性質、条件があってもよいのでしょうが、「規正法」の趣旨から「修正報告」が認められています。これが仮に「政治資金規制法」であるならば、より厳罰で、世間の皆様にも共感されやすい処分などがあるのかもしれません。現在、同時進行のような形で「公職選挙法」違反で江東区長選を巡る事件が表面化しています。こちらは明確に禁止事項・罰則事項が規制の中で定められていますから、金額の多寡を問わずに立件起訴へと突き進んでいるのだというのも分かります。

政治改革のラストチャンス
それならば、議員のみならずメディアやコメンテーターも含めて、「政治のあるべき姿」を今こそ批判だけでなく現実に即して、かつ将来発展性のある輪郭線を描く事が出来るラストチャンスなのではないかと考えています。

各評論家は「政治にはお金がかかる」という指摘について、「お金がかからに政治にすべきだ」と述べていました。ほとんどの議員は当てはまるのかなと感じています。ところが、この論理はある種の側面だけを見ていて、多角度的にモノを見えていないのではないかという感じでもあります。

 

「お金がかかるのは次の選挙のため」という人います。たしかに各級議員は選挙という洗礼を受けなければいけないために、これは自民党でも立憲民主党でも共産党でも否定する人はいないだろうと思います。ただ、地元を回る(飲み会綾や盆踊りをハシゴする)だけの議員と、明確に日々の課題を抽出しインプット、政策の進捗をアウトプットする事の繰り返しをする議員とは明確な差があります。

私が議員になった際に、既に現職都議の方や元都議の方が選挙区内に複数いたので、いわゆる地域回りはほぼ不可能でした。先人の縄張りが出来上がっているからこそ、顔を出そうにもお断りの連続でした。そりゃあ、どの地域にも代々応援してきた議員や政党があって、そう簡単には未知の新人に道を開けてくれません。小選挙区制度の下では、衆議院議員候補者は各党1人ですから、同じ党の地方議員が各地域への手引きをしてくれるので、そう難しい事ではありません。でも、私の場合は、初めての立候補が選挙2週間前のタイミングですから、既に自民党の区議達は現職議員の選挙対策組織に半年以上前から入っており、前述のような手引きはほぼゼロです。これは私が当選した後も一緒だったのです。

だとするならば、私が当時やるべきと判断したことは、1人1人丁寧に各人の課題、各業界の課題がある中で、先輩方の網から漏れているモノを後援会の皆さんや青年部のメンバーで拾い上げるということ。すると、意外と課題があるもので、今まで政治とは無縁だった団体や有権者から政策のヒントを頂く事になったのです。むしろ、どのジャンルにしろ、その時点で他の方が着手している課題は、新人の私が追いつくことは出来ませんから、「手垢のついていない」分野を掘り起こしました。そうすると、ただでさえ異質な新人都議・川松は、更に異質な政策課題を掲げ課題を乗り越える事に成功してきたのです。

1つ成功事例が出来ると口コミで、細々とではありますが色んな方を紹介して頂き数珠繋ぎで、私の縄張りが増えることになりました。それでも、2,3年で勝ち得る事は難しく「2期目になれば景色も変わるだろう。とにかく、僕は分かる人には伝わるはずだから、議員としてやるべき事をやり続けよう。」と政策発信に務めました。
 

小池都知事の東京大改革

そうやって、色々と積み重ねている作業の中で、私の将来展望プランが根底から崩れる事態が起こります。

それが2016年小池百合子知事誕生という非常事態を迎える事になりました。それは「東京の自民党は悪だ」という世間の認識にも繋がりました。あれから8年経った今でも、そのレッテルは剥がれていません。

私は当時、週刊誌やネットメディアでボロクソに言われながらも、都議会自民党の正当性を訴え続けました。間違いなく首都東京の政策は内田茂氏を中心にした、ある種リベラルで、ある種破壊的な政策決定が正しいと考えていましたから堂々とメディアに出ていったのです。首都東京のような大きな組織であればあるほど、誰かが腹を括る(裏を返せば泥を被る)場面がなければ政策は進められない事を政治浪人時代から目の当たりにしてきました。そして、私には「内田茂の足跡」と「内田茂の名を騙って事を進めてきた者達の足跡」の2つが存在する事も痛感していたので、尚更、黙ってやり過ごしたら一生後悔すると思ったのです。

小池旋風の勢いに押され離党した者、離党しないもの小池批判的な主張をしない者、表立ってではないものの小池批判をする者など様々な動きがありました。その中でも「豊洲市場移転問題」「五輪会場見直し問題」という2大テーマがあり、論理的根拠を有する自分たちの政策を信じ、発信し続けました。議員になってから、やってきた自分の政策、政治活動に対するスタンスから「捨てる神ばかりじゃない」と実感していたので、とりあえず主張をし続ければ、応援団は広がると考えたのですが、世論は思っていた以上に厳しく「東京の自民党への批判」が多すぎて、都民ファースト旋風を前に次点と103票差となる首の皮一枚だけで生き残った選挙結果でした。

政治の質を求めて
この選挙で60名いた自民党都議が23人に激減するという事態となりましたが、ここで生き残れた事の重みを感じて、更に邁進したのです。更に邁進は決して、ただ地域行事に顔を出すだけでなく、その地域の皆さんの声を聞いては、区政都政の連携の中で、地域課題を乗り越えるという思いから、地域を回るのは数ではなく、質だと決めました。

それ故「政治に金がかかる」と私が考えるのは結果として次の選挙の為かもしれませんが、やはり「政策課題を拾い上げ」「政策を進める」為にはスタッフ(人件費)が必要だと考えています。国会議員であれば公設秘書が3名いるところに、私設秘書が加わります。でも、私たち地方議員はスタッフを揃える場合は、最初から私設秘書を雇わなければいけません。事務連絡をさばくだけでも一苦労、1日にメールやらFAX、資料などが沢山届きます。これを捌くだけでも、相当な作業です。私個人は今も昔も、連日朝から夜までびっしり予定が入っており、そもそも事務所に寄る時間もほとんどないので、事務所宛の郵送物などは最初に触れることは厳しいのが現状です。

当然、同じ議員でもそういった連絡が少ない人、資料も少ない人もいると思います。私は様々な活動をしている事も含めて、その類いが極端に多いので、事務所スタッフは大変だろうと思い、バイトスタッフも含めて感謝しています。そこに、多くの皆さん方から、意見が届きますから、その対応もあるわけです。大体、政治家の事務所に電話かかってくる人は、本当に困っている人だけでなく、ただひたすらに時間をかけてクレームを投げかける方も多いですから、人手は1人でも多いのが本音です。私のもとではフルタイムは1名で、あとはアルバイト、ボランティアのスタッフで支えられていますが、それでも政務活動費ではまかないきれないので、政治資金パーティーを事務所として開催してきました。それでも必要最低限をモットーしており大稼ぎをしているわけでもありません。

でも、どこに行くのもお金がかかるし、ご案内頂いた会合に「会費が負担なので欠席します」と言える政治家もいないですから、現実的には真面目に取り組めば取り組むほど、政治活動に関わる経費が嵩んでしまうのは致し方ないと思っています。私もこのような現状を有権者の皆さんと話すと、やる事やっていて、ちゃんと説明できればいいんだと多くの方に言われます。政治家として動く時の政治資金ですから、私的な問題ではなく公人としての責務だと指摘され続ける日々です。

 

信頼回復の難しさ

つまるところ、信頼回復って、有権者1人1人の感情に委ねるところも多いですから、時に発信、時に行動など、その場面場面で

内容が変わってきますが「とにかくボタンの掛け違えがないよう」にすることだと考えています。友人同士でさえ、ちょっとした事で溝が出来て、中々修復出来なかったりしますから、政治家と有権者に一度できた溝は、元に戻すには相当な苦労が必要です。でも、この作業から逃げたら、政治不信は拭えません。私も自分の仕事の範囲で、責任と権限がある事については、きっちりとしていきたいと考えています。主張があれば、ばんばんしていかないといけない世の中です。

引き続き、皆様、ご指導宜しくお願い致します。

 

東京都議会議員の川松真一朗(墨田区選出・43歳)です。
 
今年は今まで蒔いてきた種を発芽させ、花を咲かせていく重要な一年になると考えています。コロナが日本で流行した2020年直前まで政治経済に刺激を与えるためのエンタメ、スポーツに力を入れるべきと動き回っている中で、突然の都市封鎖となりました。
 
それでも、コロナが落ち着き始めてからは、様々なところに行き色々な人と出会い、日本や東京の経済を高めるヒントを探り、日本や東京のプレゼンスを上げるために何が出来るかを考え抜いた日々でした。2023年5月にコロナ感染症分類が変更されてからは、とにかく動き続けました。その結果、年末にはかなり重症の体調不良で、私には珍しく忘年会をキャンセルする日が出てくるほどでした。ようやく本調子かなと思っていたら、また年末年始のバタバタ感ですね。
 
さて、私は新年にあたり今年の目標をXでポストしました。
2023年やること
①政治家として自分の進むべきを定める。
→混迷の時代、自分がたとえ1人になってもやらなきゃいけない事があり、今の枠組みでは難しい事を痛感しているので大きな決断の必要性を感じている。
②信頼回復。
→個人としては多くの方に誤解されていること、所属する自民党としても課題を抱えている事からあらゆる手法で取り組みます。
③日本、東京のプレゼンスを高めるために、各種プロジェクトに取り組みます。
④個人としては、この数年間、止まっていたブログ等の文字情報発信を取り組みます。
→X等では、言葉足らずで、多くの皆さんの不満を抱いた事もあったので、ブログ発信を再度力を入れます。
⑤日本大学ラグビー部総監督として
→昨年4月以来精進してきましたが、土壌が腐っているという指摘を拭いきれませんでした。よって、根本的な改革としてラグビー部の解散をも視野に、日本大学ラグビー部再生会議を立ち上げます。
⑥スポーツで日本や東京を元気に。
→私がリングに上がっているDDTプロレス、顧問を務めるブラジリアン柔術のみならず、様々なご相談を頂いているので1つ1つ形にしていくお手伝いに注力します。
⑦エンタメで日本や東京をアピール。
 
以上のような目標を立てました。
それに対して1つずつ掘り下げていきたいと考えております。
 
①政治家として方向性を定めるという点について。
政治に触れた学生時代
私は学生時代から多くの政治家、経済人との交流の機会を得てきました。学生時代には日本大学・岩井奉信ゼミ1期生として、恩師のメディア出演に同行したり、小泉政権時代には21世紀臨調の皆さんと共にする機会が多々ありました。当時は学生であり、恩師の鞄持ちでしたから、ただただその場では、たまに発言の機会があるくらいですが、見聞きした経験は相当に貴重なものでした。学生時代の研究テーマは「政策決定過程論」です。おりしも、従来の手法を壊す小泉政権でしたが、私は郵政民営化反対の立場で、当時の政策攻防を科学的にアプローチしてはレポートをまとめていたものです。
 
その後、テレビ朝日に入社してからは、更なる刺激を求めて若手官僚(外交官含む)や政治関係者で構成される勉強会に参加。この勉強会事務局の方と、桜美林大学・小沢一彦教授の下で「政治参謀学」を学びました。このメンバーから、国会議員や首長になった方も多く、これはこれで私の財産です。

導かれる縁にしたがい
そして、ラグビー協会の会合で、森喜朗ラグビー協会会長と雑談をしている中で「政治の勉強を心底から学びたいのなら、小野晋也に弟子入りしなさい」と言われました。これは2007年の事です。小野さんが松下政経塾1期生、小沢教授が3期生という関係から、森会長の紹介状をもって小沢教授と直ぐに小野事務所を訪ねました。その後、小野さんは2009年の総選挙には不出馬で(とりあえず)政治家引退となるまで、毎週のように小野先生から宿題を頂き、それに対して回答を模索する日々を送っていました。安岡正篤、伊庭貞剛、王陽明などから「アラン、ラッセル、ヒルティ」の幸福論や寺山修司の幸福論など、とにかく政治をやる上でリーダーの心構えを鍛えられた日々でした。今でも、自分が迷走しそうになれば、この時のノートや小野さんから提示された資料を読み込んでいます。
(小野さんは現在愛媛県で後進を育てながら、ご自身の発信も繰り返し行っています。)
元衆議院議員小野晋也の「在野の活動・発想イラ短日記」 (cocolog-nifty.com)
 
2010年には「第1回丸川珠代を励ます会」で内田茂都連幹事長(当時)と初めて名刺交換し、2011年にテレ朝退社時には、あらためて森総理の推薦で内田門下生に。そういえば、私の今となっては宝物の1つが、私の入党申し込み書です。紹介議員は内田茂となっています。
 
加えて、それ以前から親しく知遇を得ていた高島なおき都議会自民党特別顧問(当時)と3人で過ごす機会を沢山頂きました。11年には墨田区長選挙に出馬も次点で落選したのち、夏頃だったか自民党都連に内田・高島両氏呼ばれて、当時の都連事務局長と4人で話し合わせて頂きました。内田さんから「何ための政治に足を踏み入れたのか?」「誰もやった事がない事をやるためじゃないのか」「政治はダイナミックでなければいけない」「役人は専門家、この人たちが最大限に力を発揮できるように方向性を示し、全ての責任を腹括るのが政治家」などなど、様々なご教授を頂き、アカデミックではない実地レベルでの「政策決定過程」を学んだ時間でした。

突然、都議会議員への道が開かれる
そんな中、2013年6月の選挙を約2週間後に控えた時、私がコーチをしていた日大ラグビー部のグラウンで物置きの掃除をしていたら内田さんが電話が入ったのでした。「あのさ、都議選の世論調査をやったら墨田区で2議席取れそうなんだよ。今から、大至急、準備出来るか。墨田の滝沢さんと調整に入る。」そう突然に言われたのです。この時、私は複雑な気持ちでしたが、自分は時の流れに身を任せようと思っていました。おかげさまで、この選挙ではトップ当選。しかも、既に自民党墨田総支部の体制は準備してきた候補者で固まっているから、自前で選挙をやって欲しいという事になりました。結果として、この時に立ち上がった「川松青年部」は何事も代えがたい私の同級生達を中心としたチームです。
 
この時、自民党の獲得議席は57議席。私は最後の候補者であり、かつ最年少ですから、正に57番目の議員でした。そこから私の議員生活は始まりました。それから2016年の小池知事誕生後は、正面きって小池知事を批判する人がいなくなってしまったので、私がメディアに出て語る事も多くなりました。が、ドン内田批判の流れで私も週刊誌に取り上げられることも多々ありましたが、2017年選挙で次点と103票差で再選。今度は、都議会定数127で、「ミスター103」「127番目の男」とも
呼ばれましたが、今では3期目で都議会自民党政調会長を務めています。

この10年で感じていた自分の限界点。
首長と議会はチェックアンドバランスの関係ですが、これはあくまで議会であり、議員ではありません。その意味では、私が都議会議員としてやれる事は連日めいっぱい動いています。それでも乗り越えられない壁があります。これまでも、東京都の各種事業の問題点を指摘しました。昨年は、「若年被害女性等支援事業」の不備を指摘し続けました。それでも、あと一歩届かない1議員の葛藤の連続でした。この空虚を乗り越えるためには、手法・アプローチを変えないといけません。

おりしも、今は、世間の空気は「政治刷新」の気運。私も、自民党員の端くれとして思うところは多々ありますが、今までとは違う動きをしなければ、墨田区のみならず多くの皆さんの期待にはお応えできないと考えています。様々な決断を迫れる年になるし、そうならなければいけないなと強く感じています。
 
結論になりますが、今こそ、
「自分はなぜ政治家を目指したのか?」「自分で歩んできた道はなんだったのか?」「真のリーダーとは?」と自問自答し、なにものにも依らず、圧に屈せず、正義を貫く事。それで選挙で評価されないなら自分の不徳の致すところ。という根本精神を奮い立たせたのです。

今一度、「政治は無限の理想への挑戦」という先人の言葉を胸に1月1日新春の誓いを立てた事をご報告致します。
今年もどうぞ、皆様宜しくお願い致します。
次回は、↓について記します。
②信頼回復。個人としては多くの方に誤解されていること、所属する自民党としても課題を抱えている事からあらゆる手法で取り組みます。

新年を迎え、皆様いかがお過ごしでしょうか。

東京都議会議員の川松真一朗(墨田区選出・43歳)です。


こちらのアメブロですが、しばらく更新がなされていませんでしたが、
思うところがあって、今年、動かしていこうと思います。



多くの方から今はnoteだと言われてきましたが「原点回帰」を今年のサブテーマに掲げています。

例えば、

・自分がなぜ政治家を目指したのか?

・自分は何者か?
・自分がやりたいことは?
・自分が大切にしている人は?
・自分の使命は?


私も2013年7月に初めて議員バッジをつけて昨年で10年。テレビ朝日を辞めて政治家に目指してから今年で13年目となります。もっと言えば、2003年にテレビ朝日入社以来、私は何を皆さんに届けたかったのか。昨秋以来、瞑想に耽る事が多々ありました。



私の評価は人によって様々です。毀誉褒貶激しいと言われるし、自分でも自覚しています。
今までなら「分かる人が分かればいいんだ」「嫌なりゃいいんだよ」と自分の正義は揺るぎないと信じているので動いてきたのですが、SNSで人々が情報を得る時代、それだと身近な人まで惑わされてしまうと実態に苦悩してきたのも事実です。ならばこそ、このアメブロがかつてバズって、ブロガーの端くれと言われていた私なりに、日頃の思いを政治に関わらず発信続ける事がいかに重要かと思いったものです。

私を議員として接した人は「都議会議員」として私を見ます。

私をラグビーの指導者として接した人は「日本大学ラグビー部の人」として私を見ます。

私をアイドルヲタクとして知った人は「AKB推しの人」「岡田奈々推しの人」としてDMを送ってくれます。

私をDDTプロレスを通じて知った人は「レスラーの川松先生」として応援してくれます。

私を歌舞伎町活動で知った人は「ホストクラブに詳しい人」として見ています。

 

私を宴会の場でしか会った事がない人は「盛り上げる人」として認識しています



まだまだ色々な姿があると思います。

いずれも私のウソ偽りのない姿なのですが、複数の姿をリアルに知るとギャップにみんな驚きます。
だからこそ、私の姿を自ら発信し続けなければ、大きな誤解を生み、時に怒りを生んでしまうのです。
「なんでリングに上がるんだ」「アイドル追いかける前に仕事しろ」「日大の学生指導できずに、政治家なんてできるのか」などなど、私への厳しい言葉は沢山あります。でも、その全てが根底で「川松真一朗」に繋がっているので、中々、否定も出来ない状況だからこそ、1つずつ発信し続けて、誰しもに応援して頂ける「川松真一朗」を目指そうと思い立ったのです。ちなみにですが、私がこのアメブロを始めたのも、2011年に日本大学ラグビー部コーチに就任した時。実は議員になる前から動かしていたものです。

これを機に読み返してみると、ハッと気付く事があります。
そんな事も含めて、「闘う、政治家。」として私の進む2024年を様々な角度からお伝えしていきます。




どうぞ宜しくお願い致します。


 

「フワちゃんがプロレス参戦!?」

このニュースが衝撃で、日曜・月曜と会う人会う人から、必ず話題を振られる。

こんなにプロレスが日常話題になるなんて、私が議員になってから、いやテレ朝でもワールドプロレスリング班と話す時以外は滅多になかったのに。

角澤アナとは大日本プロレスのデスマッチ考察というのをよくやっていたけど。

 

(フワちゃんツイートより)

 

 

日曜夜に最初に、私にこの話をしてきたのは息子。

子「お父さん、フワちゃんがプロレスデビューだって!?」

私「えっ?」

子「岩谷まゆ選手って知ってる?」

私「知ってる。素晴らしい選手。お父さんが注目してきた選手の1人。で、突然、岩谷選手がどうしたの?」

子「一緒に4ヶ月練習してきてるんだって」

私「それだとスターダムだね。新日本プロレスのグループだよ」

なんていう会話でしたが。いきなりSNSで見たんだと。

 

でも、一般の方々との一番多い会話の内容はこんな感じ。

「川松、フワちゃんとは試合しないの?」

「ないです。」

「YouTuber対決とか」

確かに内容的にはDDT的になありそうだけど。

 

フワちゃんの決意

私がリングに上がる事に賛否両論あるけれど、自身の体験からすればフワちゃんも相当な覚悟だと思う。

リングに上がって、受け身一つ取れば分かるが、怖いし痛い。

でも、とにかく強くなりたいという思いと、自分が戦うことで何かを伝えたいという思いが共存しなければ絶対にできないと実感している。

僕の場合は「不可能を可能に」というテーマがあったから批判も覚悟の上での決断。

 

フワちゃんが、どんな練習をして、どんな試合をするのか、まずは10月の立飛アリーナの試合を見てから判断すべきだと私は思う。「芸能人だから」なんて言ったらダメですよね。今や結構、芸能界からリングデビューしている人多いし。

 

我らが東京女子プロレスを見れば、

令和のAA砲である赤井選手はモデルさん、荒井選手はSKE48のそれぞれ現役です。

(令和のAA砲、荒井選手のツイッター@araiyuki57より)

左が赤井沙希選手、右が荒井優希選手

 

心のバイブルを引っ張り出して

脱線するが私は幼少期に「最狂超プロレスファン烈伝」という漫画を何度も読み返していた。

そこからすれば、プロレスに多種多様な形があり、それと同時にプロレスファンにも多種多様な形があると思っている。

当然、相容れないもの、想像できなものもあるかもしれないけど、それを超越して、熱く語るのはファンの楽しみ。

例えば、グレート・ニタが大阪南港で復活して真鍋由アナを襲って、その後、あの蝶野選手と電流爆破をやるなんて誰も想像できなかった。和泉元彌さんがKENSOさん、鈴木ひろ子さん夫婦を相手にあそこまでやるとは誰が考えただろうか。

 

心から願う“東洋大決戦”

ただ、フワちゃん参戦を聞いて、東洋盟友と絡んで欲しいと心から叫んでしまったのは1人や2人ではないはず。

ちなみに東洋盟友とは東京女子プロレスに存在するユニットで、上福ゆき選手、桐生真弥選手の東洋大同級生タッグ。そして同じ東洋大卒業をしているフワちゃんも年齢不詳ながら同時期にキャンパスにいたと推測される。

2人の大技はエンリョウ。東洋大創立者・井上円了によるものだが、エンリョウをフワちゃんに仕掛ける日は来るだろうか。

(東洋盟友の2人。上福選手のツイッター@zacyukiより)

左が上福ゆき選手、右が桐生真弥選手

 

でも、フワちゃんに負けず劣らずに、

東洋盟友の2人にファンが1人でも増える事を祈りつつ。

 

追記

書いていて思ったけど、「フワちゃん」は正確には「フワちゃん さん」と言うべきなんだろうが自然に「フワちゃん」でブログを書いてしまった・・・

川松真一朗です。

 

 

前回、久々にこちらで書いたブログには多くの方から様々なご意見を頂きました。

↑は私が余暇を上手に活用して、取り組んでいる事への思いを記しました。

 

それでも「政治家が何やってんだ」という批判は常にあると思います。だからこそ、議員としての日常も、川松公式ブログで毎日ご報告していく事にしました。

 

 

 

リングで戦ったら後悔ばかりだった!?

さて、今日は実際にプロレスのリングで戦ってみて、感じた事、思った事を書いていく回にします。

 

 

そもそも、私が7月3日に後楽園ホールに呼ばれて、8月20日の対戦相手を知らせる事になりました。

その相手は西村修選手でした。

「冗談でしょ?」という率直な感想でした。そもそも、西村さんがDDTのリングに上がった記憶はなかったし、「無我」の世界観は文化系プロレスの路線とは違うのではないかと瞬間的に思ったからです。

のちに記者会見でも持ち出しましたが、15年くらい前に武藤敬司さん率いる全日本プロレスの会場で「キティちゃんが瞑想」する無我Tシャツを買って、本人にサインまでして貰っているくらいの無我・西村さんのファンだったんです、私は。

 

そんな西村さんとの対戦となり、過去の西村さんの試合を思い浮かべて臨む一戦となったのです。

 

無我は無我

新日本プロレスでも、全日本プロレスでも西村さんのファイトスタイルは変わりません。

時に相手が派手な選手でも付き合う事なく、ご自身の無我を貫いていました。

加えて、記者会見での私を全く相手しない噛み合わないやり取り。予想していたとは言え、8月20日はどうなってしまうのだろうとしか思う事がありません。この会見では、当初は東京の23区制度を活発に議論するというディベートでの前哨戦と聞かされていましたが、西村さんは文京区の話しかないのでダイナミックな話が出来ませんでした。

 

これが無我スタイルなのか、そもそも素人である私がリングに上がることへの怒りなのか、私の想像は大きくなり頭の中でグルグルと考えが回ります。

いずれにしても、恐怖感しかなかったですね。さすがに高木社長には、いつも尊敬と感謝の念で一杯ですが、この時ばかりはこのマッチメイクを恨みました(笑)そして、本当に試合していいのだろうかと、この日まで以上に恐怖と不安に駆られる事になったのです。

 

ウォーミングアップから心はここにあらず

嫌だな、嫌だなと思いながら迎えた8月20日当日。

大田区総合体育館に到着し、ウォーミングアップをしていました。実は、数日ですが練習を一緒にやって頂いたなべやかんさんから「川松さん、絶対に自分が思っている以上に体を動かした方がいいですよ。とにかくウォーミングアップが大切です。」と言われていたので、体を動かさなくてはと思っていました。

※なべやかんさんは2018年からベストボディ・ジャパンプロレスでプロレス参戦。昨年にはDDTでKO-D8人タッグ王座に就いています。

 

アップと言っても、会場は既にオープンになっているので、リング上ではできません。私はラグビー式のアップなら頭と体に染み付いているので、とりあえず動かそうと会場内の廊下でアップをしていました。何名かのレスラーとすれ違いましたが、何やってんだと思われた事だと思います。

 

私の試合は第4試合。前の試合が始まり、いよいよリング入場口へ移動する事になります。

タッグを組んで頂いた高尾選手からは「何とかなりますよ。初めてだし、お客さんは応援してくれますよ。」と熱いお声がけで、迎えた入場となりました。

私もプロレスや格闘技で、多くの選手入場を見てきたけど、一体パフォーマンスとかどうしたらいいのか等とずっと考えていたら、入場曲であるTheBrowBeat「ハレヴタイ」がかかりました。そもそも、私のコスチュームはスーツスタイル。DDTファンの皆様の中にはどうせ「接待プロレス」だろ、冷め気味に第4試合を展望している方も少なくないと思われる中で、スーツで来たなと思われるし、あまりはしゃぐの良くないだろうとも考えましたね。

 

前述のアメーバブログで書いたように、私はあくまで議員であり、たまたまリングに上がっているに過ぎませんから。でも、最初で最後だから、やりたい事やった方がいいのかなぁなんて思ったりもしながらも、結果は、普通に入場でした、、、

 

リングの上では頭が真っ白に

選手もコールされ、人生初めての紙テープを経験すると、頭の中は真っ白に。

所々から「カワマツー」「センセー」などの声が聞こえてくるのですが、どちらから来ているのか分からなくて。少なくとも、事前に席場所を聞いていた人たちがどこにいるのか分かっていたのですが、この時点で東西南北の方向感覚がなくなっていました。ゴングが鳴る前に、試合前に「握手がありますからね」と松井レフリーから言われいましたので、高木選手、高尾選手に合わせて、相手側と握手しに進みましたが、ここで想定外の事がまた起こってしまいます。

なんと、試合前のデフォルトだと考えていた握手を西村さんに拒否されたのです。

西村さんは、他の2人とは握手していますから、完全に私への怒りモード。

(もう、やばいよ。逃げ出したい。何されるか分からない。やっぱりプロレス挑戦なんて断るべきだったよ。)などと、更にネガティブがフル回転で頭がよぎります。でも、これまでも「イージーな選択」と「ハードな選択」に二者択一ならば「ハードを選ぶ」と自身に戒め、周りにも厳命してきた私は逃げるわけにはいきません。「ハードな選択を選ぶのが漢だ」と心を奮い立たせて、高木・高尾両選手に懇願して、トップバターを務めさせて頂く事にしました。

 

目の前にそびえ立つ西村修。ゴングと同時に間を取りにいきます。私が取り組んできたブラジリアン柔術は、間を取りながらジワジワと間を詰めていく競技で護身術。それ故、私にはそれが染み付いてプロレスの練習でも、最初はゆっくり入っていくというスタイルでやっていました。ところが、向き合った相手には隙もないし、どこかで先に仕掛けるしかないと思ったのでした。

 

 

ですので、私からロックアップという組み合いに先に飛び込みました。

この時「あっ、こりゃ違う。本気でヤられてしまう。」と思っていたらロープに押し込まれて、写真のように西村スタイルで一度離れます。

 

闘うことは、どういうことか

でも、さっきと同じようにいったら、また負けてしまうので勢いよくいかず、じっくりいこうと考えました。

突進力ならラグビーや総合の練習でやってきているので負けない自信はあったので、自分の姿勢を崩さずにコーナーへ押し込みました。ところがココでまた誤算が生まれます。

 

コーナーに押し込んでから、何やっていいのか分からなくなりました。プロレスファンとすれば、ここはチョップだと思いやってみたものの、いざ相手を前にしたら練習と違って肩が動かない。つまり、緊張のあまりガチガチになっていたのです。(これは後日談ですが、翌日以降、今までに経験した事がないくらい、首から肩にかけての筋肉痛が出ていました)

そのチョップの甘さに怒った西村修から痛烈なエルボーとエルボースマッシュを喰らいます。この最初の一発で口を切ってしまいました。(マウスピースを忘れていました。)なんだ、この威力。これがプロレスラーの攻撃だなぁと、もう本当にプロレス挑戦した自分を悔やんだ1発でした。でも何とか喰らい付けば、今度はテイクダウンを取られる。でもこれは、西村さんの定番なので想定内。すかさずヘッドシザースにもちこむ。この後は、西村さんの逆立ちでの無効化という返しに、ファンとしては嬉しいんだけど余韻に浸る事なく、気合いを入れ直しました。

 

それからは大石選手、彰人選手との攻防もありながら、最終盤はトップロープ越しのぶっこ抜きブレーンバスター。正直、私が練習をしてきて下さった様々な方は私より小柄な方ばかりでしたので、練習では綺麗に決めていて自信のあった技。

 

ところが、持ち込もうとした私がいうのもなんですが、とにかく西村さんは私より長身だし重い。エプロンサイドから、ブレーンバスターが出来るだろうと本能的に組みにいってしまったのですが、逆に返されれば私が場外に投げ飛ばされる事になり、かなりの緊張感でした。既に、10分以上経過しリング内で攻撃され走り回ってスタミナは切れていたと思うのですが、最後の力を絞って一気に持ち上げました。結果、私が目指す超滞空にはならなかったものの、生まれて初めてお客さんの前で格上の相手にブレーンバスターを決めたのでした。

 

無我に完敗、そして・・・

この後は、西村さんにバックを取られての彰人選手によるドラゴンスクリュー。そして、西村さんのスピニングトーホールドからの足四の字固め。これが往年のプロレスファンならば大満足の展開。やられている私はそれを愉しむ余裕などなく、逃げ切るためにもがくしかありませんでした。どうにかこうにか一度は足を外せたものの、すぐに強く締められギブアップでした。もう、とにかくやり切った感はあるけど、足が痛すぎて、それどころではありませんでした。お恥ずかしながら悔しすぎて。

 

結局15分弱の試合の中で、西村さんと噛み合うことがなかったなと思っていたら、突然の西村さんのマイク。

「川松さん、歴史と伝統のプロレスに興味があるなら、ぜひあなたを無我にお誘いしましょう。」と思いもかけない言葉。記者会見から試合中まで、全くもって「プロレスなめんなよ」という威圧感しか体験してなかった、あの西村修からの声がけです。私も思わず反応してしまいました。「この試合でデビューして即引退かと思っていましたが、今西村さんから無我を認めていただいたので、追求させていただいてもよろしいでしょうか。」今となれば、またハードな道を選んでしまったのでした。

実は、この試合後、西村さんと初めてお話できました。

「川松さん、あなたの気迫は十二分に感じました。しかし、あんなに全身に力が入っていたら、相手に力は伝わりません。無我に興味があるならば、コンディション作りはもちろんリングの受け身の練習も継続されてください。」と淡々とアドバイスを頂いたのでありました。

リング上で話した通り、西村さんだけでなく、高木社長、彰人副社長、大石選手、高尾選手、私の本格デビューという節目に戦って頂いて本当に有難うござました。

 

この日初めて、プロレスを見た私の友人、知人あるいはSNS上の仲間が大体100人くらいいたのですが、本当に皆さん「プロレスでこんなに感動すると思っていなかった」とお言葉を頂いております。私にとって最初で最後の一戦のつもりでしたが、こうなったら目標を私の地元・両国国技館大会出場にランクアップさせて無我を追究すべきだと心を奮い立たせています。

 

両国出身の「闘う、政治家。」はあらゆる事象に対して全力で闘い続けて参ります。

 

 

 

こんにちは、川松真一朗です。

 

なぜ議員が動いたのか?

8月20日のDDTプロレス・大田区大会『WRESTLE PETER PAN 2022』に出場しました。

なぜ東京都議会議員である私がプロレスに挑戦する事になったのかは、半年前、もっと言えば昨年の秋からDDTや東京女子プロレスに関わってきた経緯があるので、きっちりと順を追っていかないと一般的に理解して頂けないと思うので何回かに分けて記していきます。

 

あくまで今日は「なぜ、決意したのか」この点に絞ってのブログです。

 

結論からいうと「政治とは無限の理想への挑戦」という私の信念に従順に従い「夢は必ず叶う」「やる前から可能性を閉ざしてしまっている社会環境に一石を投じたかった」という事です。それが私にとって、たまたまプロレス挑戦であっただけの事で、高木さんではなく、違う方に声をかけられていればもしかしたら他の事だったかもしれません。一言では表せられないので、最後までお読み頂ければ幸いです。

 

尚、この様子の一部はDDT公式下記YouTubeに上がっています。ちなみに全編は配信サービスWRESTLE UNIVERSEでご覧頂ければ。→https://bit.ly/3pc1RUs現在は2週間無料トライアル実施中!

 

 

プロレスファンだったのは紛れもない事実

そもそも、私は大のプロレスファンです。物心ついた時に新日本プロレス、ユニバーサルプロレスの虜に。特にグレート・ムタスティングが戦った東京ドーム大会や、浅井嘉浩選手の跳躍に心を打たれ、SWSにウルティモ・ドラゴンを見に行った記憶が懐かしいですね。天龍源一郎さんは両国中学校の先輩で、みんなで天龍を応援していたし、SWSでの天龍vsホーガンも同級生たちで行きましたね。その後はパンクラスの試合に何度も行きました。とは言え、FMWやW☆INGにもアンテナを広げ、単純に「プロレスマニア」だった少年時代。

 

その私がDDTに強く興味を持ったのはKUDOさんという日大キックボクシング部の先輩がDDTの選手だったから。ある時に、キックボクシング部の歓送迎会に古屋尚顧問に呼ばれて行った時にKUDOさんとお会いし何となくでしか認識していなかったDDTに興味を持ちました。見てみたら無茶苦茶な団体だったけど、これはこれで観客の皆さんが喜んでいるし、凄い熱気だと感じたのです。でも、DDTは「人々に元気を届けている。人々に笑顔をもたらしている。」という強烈な印象があったのは今でも覚えています。

 

私の前にプロレス王者になっていた愛媛県知事

それから15年以上経過して、とあるご縁で高木三四郎社長にお会いする事になりました。その頃は、愛媛県の中村時広知事がアイアンマンヘビーメタル級チャンピオンになったばかりで「知事もチャンピオンになれるなら議員もなれますか?」と聞いた事が今回の全てのきっかけとなりました。高木社長から「ベルトを獲るチャンスは誰にでもあります。」と言われたきり、以後、この件は言及していませんでした。その後、2021年10月9日の東京女子プロレス大会インターナショナル・プリンセス選手権試合のベルトプレゼンターをはじめ東京女子やDDT でベルトプレゼンターを務めました。

 

特段、前述のプレゼンターは普通に何もなかったのですが、転機は今年3月27日のアイアンマンヘビーメタル級のプレゼンター。いつものようにリングに上がったら、対戦した両レスラーがダブルダウン。すると場内実況の「リング上には川松先生しかいない」という声が響き渡ると、後楽園ホール全体がわきあがりました。私は、どこまでがネタか分からないので戸惑ったのだが、場内的にはフォールにいかなければならない雰囲気だった為、思いっきりフォールに行ったら「1、2、3」で私が1548代のチャンピオンになってしまったというわけです。

 

 

愛媛県知事と私が違ったのはココから。知事は、直ぐにベルトを返上したのだが、私については高木さんが「川松先生は東京だし、とりあえず返上せず保持しておいてください」という事で、返上させて貰えなかったのです。それから約2ヶ月経って私は防衛に失敗ということでベルトを失なうことになりました。

 

それは突然だった

転機が訪れるのはその直後。高木社長から「本格的にプロレスをやりませんか?全面的にサポートします。」こう打診がありました。私はアイアンマンチャンピオンになっただけで満足で、突然のお誘いに「ドッキリかと」疑いながら、じっくり考えていました。DDTは団体発足から25年という月日の中で、全日本プロレス・新日本プロレスという伝統の系譜を持たないだけに、常に独自視点で新規のファンを獲得し、SNSや動画配信など新たなチャレンジをしてきた団体。いわゆる伝統のプロレス団体ではない事を重々承知しています。その結果、本当に多くの人がパワーをもらってきたと認識していたのは事実なのです。

 

政治家は本来、常に「昨日よりも今日、今日よりも明日」と政策を前に前に進めていかねなばならないし、一人でも多くの方を政治に巻き込んでいかねばなりません。「政治は私に関係ないし」と思っている大多数の方に、少しでも興味を持ってもらうようにするのは政治家1人1人の努力が必要だと特にコロナが流行していてから強く考え続けていた事でもあります。。それ故、世界は大きく違えど、DDT高木社長のプロデュース力から政策発信の方法、多くの人を巻き込む手法を学んでいたのも、紛れもない事実なんですね。

 

 

今回の高木社長のお誘いを受ければ、この高木社長の仕掛け方・思考力・目の付け方等をより身近に学べるのではないかと考え、それだけでもワクワクしました。とは言え、プロレスだからこそ練習や体作りをどうするかという問題が残ります。記者会見などでも述べてきましたが、趣味の範囲で私は打撃系の格闘技、ブラジリアン柔術に取り組んできてはいます。学生時代にはラグビーに取り組んだり、その後もトレーニングも定期的にやってきてもいます。そこまで高木社長は分かった上で、私の体力、筋力を認識した上で誘ったのは間違いないでしょう。それでも、毎日不定期な動きをしているので練習時間も微妙なところ。その点、高木社長には「早朝でも深夜でもコーチ陣と全面サポートします」と更に口説かれることに。だから私は「公務最優先。これで練習ができるなら、まず練習やってみます。そこで試合が出来るか判断して下さい。」と一大決心をしたのでした。

 

最後まで葛藤

議員がプロレス挑戦となれば、普通に考えてマスコミやSNSで叩かれる、カッコウの的。でも、私はこれ以前にも「都議として」全力で活動してきたし、多岐にわたる課題のある都政においても守備範囲を広く議会で動いてきた自負はあります。それでも、表面的に見ればネガティブな意見は多いだろうという一抹の不安は残るもの。以後、私の中では「(リアルに)戦うことの恐怖」「世間への伝わり方」がとてつもない精神的なプレッシャーになってきました。でも、やると決めたからにはやろう。まずは、チーム川松と呼ばれる「川松後援会青年部」のメンバーに事の経緯を報告。彼らから「誰もが出来る事じゃない。政治家としての活動量は俺らが証明する」等々の熱い言葉をかけて貰い、私の中で、彼らの理解なくして何事も運動が出来ないので腹は決まったタイミングでした。

 

 

一方で、私の参戦云々以前に高木社長に相談していた件がありました。

それは全国あるいはアジアなどの恵まれない子供たちにチャンスを創出するという試み。ココでいう「恵まれない」は経済面だけでなく、家庭・学校・社会などのあらゆる環境を含む。「将来は○○になりたい」と夢を描いても周りの大人が「無理だと」止めてしまうケース。あるいは最初かた「お金がかかるから」と自ら大きな夢を描くことさえしない少年少女が沢山います。この春頃から、現場調査をはじめたり、児童養護施設支援の団体などへのヒアリングも含めて調査を開始してきました。その一端が、私がアンバサダーとして発足させた「ONE ASIAチャリティプロジェクト」。今後、様々な企画を各界の代表者と全国で進めていきたいと考えています。ここでターゲットにしてきた子供達に「おじさんも諦めずに頑張っていたら10歳の頃の夢を40歳で叶えられる」という事実をもって「目標を立てて、そこに向かって全力で進んでいく大切さ」を伝えたいと強く思ったのでした。

 

「誰かがやるなら、俺がやる」精神

「不可能を可能にする」これが政治家の姿であると私はアメリカで学びました。竹下登氏は「政治とは無限の理想への挑戦」という言葉を遺され、私が政治家を志した頃から私も常に心にある言葉です。プロレスラーから議員は沢山いるけど、その逆はいない。誰もやった事のない挑戦だから、私がやる使命があると思い立ったわけです。私の座右の銘は「自我作古」。高校時代からブレずに信念としてきた「我をして古(いにしえ)をなす」つまり「私が歴史を作る」という開拓者精神を表現しています。しかも、DDTとい団体の頭文字は「Dream Dramatic Team」、今の政治家がマスコミの評価ばかり気にして、小さくなる中で、真の政治家像を目指すためには「リスクテーカー」になる必要性があると常々持っています。私は10代20代の青年達から人生相談を受ける時にいつもこう言っています。「挑戦者」はチャレンジャーではなくリスクテーカーと訳すように心がけたら、色々な世界が見えるよと。

 

 

今回の挑戦がプロレスではなくて、バンド活動とかお芝居だったら、ハレーションも少なかったかもしれない。でも、政治家だからこそ、より幅広い視野で物事を見つめて、誰よりも先を見据えた政策を打ち出さなきゃいけないというのは私の心情。

 

今回、DDT広報チームのおかげで良いも悪いも含めて、多くのマスコミに取材をして頂きました。これをきっかけに政治に興味を持つ人が1人でも増えてくれればいいなあと心から思っています。とにかく、私は色々なイベントやテレビ番組に呼ばれて、各級の政治家や評論家と討論させて頂く機会がしょっちゅうあるのですが、年々、議論の内容が表面的でつまらない事が増えてきました。もっと本質的なぶつかり合いの議論をしないといけないんじゃないかなって。だから、政治家は「(いわゆる)政治家らしさ」も大事かもだけど、内面は常に磨き続けなければいけないなと考えています。役人が用意する役人都合の難しい言葉を並べた資料と睨めっこしていても、前には進めない。当然、実務家としての彼らには敵わないが、政治家は想像力や俯瞰で総合的に見る目は絶対に役人に負けてはいけない。都庁の役人が私と議論すれば、必ず各種政策は「本質的な議論」になります。本来はそういう場面を動画で撮影して公開できれば、毎日、私が何をやっているのかも伝わるのだけれども。

 

リングに上がって見える景色が変わった

今回、リングに上がったのは初めてではなかったのですが「プロレス本格デビュー」というキャッチの衝撃は大きく、多くの皆様にご心配とお怒りをもたらしているかもしれません。普段の私を知っている都政記者や役人や身近な議員達はココまで書いてきた私の思いを概ね理解してくれているはず。ただ、そうではない方々に向けて、9月1日から定期的に区内へ配布してきたニュースレターの発行数を増やし、私の日々の活動を本ブログか、こちらのブログで公開していくと決めた。ふざけているようでふざけていない川松真一朗をしっかりアピールしていきます!!

 

そして、プロレスはDDTに関わらず様々な団体が地域活性化策に直結すると思っています。私がそう感じたのは2020年12月のスカイツリーでの電流爆破マッチ立会人を務めたからこそ。今、仕込んでいる事も、これから徐々に表面化していくと思います。SDGs17の目標を私は1つ1つクリアしていきます。今回のデビュー戦は3番目の目標「すべての人に健康と福祉を」でしたが、今後、高木社長と1、2、4、5、16、17あたりは取り組み実践していけると考えています。

 

今後とも、どうぞ宜しくお願い致します。

また、思うがままにブログを書いていきます。次回も宜しくお願い致します。