ShortStory.479 あの音 | 小説のへや(※新世界航海中)

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 1話完結の短編小説を書いています。ぜひご一読ください!
  コメントいただけると嬉しいです。無断転載はご遠慮ください。

 

 久しぶりの更新になってしまいました。申し訳ありません…。

 久しぶりの一話が、また暗いんだこれが…(←え)

 

↓以下本文

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 気のせいだったのだ。きっと――

 

 

 

 

   あの

 

 

 

 

 あの日、私は帰路を急いでいた。

 急いでいたというと、語弊があるかもしれない。

 残業で帰宅が遅くなり、ただ無心に駅からの道を

 自転車で走っていたのだ。

 

 疲れていた。ペダルをこぎながら、

 そして、夜の道に白い息を吐きながら、

 何も考えずいつもの道を通った。

 空気はもちろん、街灯の明かりでさえ冷たく感じる。

 

 人も車も少ないけれど、交通事故にだけは

 気を付けていた。そのつもりだった。

 ぼうっとしていたら、人に当たってしまうかもしれない。

 そうなったら一大事だ。いや、相当面倒なことになるだろう。

 だから、注意しなければならない。

 

 ため息も出ないほど疲れていても、

 車の音だけはよく聞こえた。うっかりしていると、

 今度は自分がはねられかねない。

 残業続きのまま人生を終えるなんて、まっぴら御免だ。

 そうならないように、耳だけはよく働いていた。

 それに、この町の夜は静かなのだ。

 

 しばらくまっすぐの道。

 私は道路にはみ出して、いつものように

 緩く左右に振れながら走っていた。

 車の少ない道路を独占して、優越感に浸っているわけではない。

 律儀に、うす暗い道の端を走るのが億劫なだけだ。

 

 向かいに人影が見えた。

 道路にはみ出して歩いているのは高齢の女性だった。

 遠くのシルエットでもわかる、歩き方、背格好。

 帰り道なのかわからないが、『妙に車道にはみ出して

 歩いているなあ』 単純にそう思った。

 

 彼女の横を通り過ぎた。

 家までの道はあと半分。早く家に帰りたい。

 寝たい。ただそれだけだった。

 そんな私の耳に、後ろから車の音が聞こえてきた。

 もう少ししたら、後ろから追い抜いてくるかもしれない。

 

 近づいてくるその音。

 私は反射的に道路の端に寄った。その時だった。

 

 どん。

 

 鈍い音が聞こえた。

 車の音はもう聞こえない。

 

 私は自転車をこいでいる。音は後ろだ。

 でも、振り向かなかった。

 

 疲れていた。早く帰りたかった。

 

 しかし、私は直感していた。

 その鈍い音を聞いた瞬間、頭の中にすぐに光景が浮かんできたのだ。

 あれは衝突音だ。車が誰かにぶつかった音。

 あの女性に――

 

 一瞬のひらめきのうちに、

 ペダルを何回こいだかわからない。

 家に近づくにつれ、だんだん頭がさえてくるようだった。

 鼓動が速くなったのは、自転車のせいだけじゃない。

 気づけば私は、寒い玄関の前で立ち尽くしていた。

 

 車があの女性にぶつかったのだ。そうに違いない。

 そんな音だった。でも、私は振り向かなかった。

 確認しなかった。当然戻ることもなかった。

 あの後どうなったのだろう。

 

 車がそのまま立ち去ったかもしれない。

 地面に倒れた女性を残したまま。

 女性はどうなった? 出血している?

 誰か気づくだろうか。夜の道で、彼女に。

 救急車を呼ぶ必要があった? 誰かが。

 気づいた人が助けるべきだった――私が?

 

 振り向けば、少し戻って確認すればわかったこと。

 女性がけがをしているのか。全くの気のせいだったのか。

 でも、私は振り向かなかった。あんな明らかに

 何かあった音を耳にしながら、そのままペダルをこいだ。

 気づかなかったふりをした。ただ、疲れていたから

 早く帰りたかったから。もしもなんて考えなかった。

 考えないふりをした。

 

 早く帰りたかったから。ただそれだけの理由。

 

 もしかして、私はそれだけの理由で、

 誰かを見殺しにしたのだろうか。私がちゃんと確認して、

 救急車を呼んでいれば、助かったかもしれないのだろうか。

 そうしなかったせいで、もしかして今も彼女は道に

 倒れたままになっているのだろうか。わからない。

 

 馬鹿みたいだ。どうなったかなんてわからないのに。

 ただの気のせいかもしれないのに。

 じゃあ、今から戻って確認しようか。そんなこと、できない。

 もう家まで帰ってきてしまったのだ。

 そんなことできない。そんなことする必要はない。

 きっと大丈夫だ。大丈夫。とりあえず家に入ろう。

 

 気のせいだったのだ。きっと。

 あの音だって、きっと気のせいだった。

 悲鳴もなかった。そう、悲鳴もなかったのだ。

 気のせいだったのだ。疲れていて、そう思っただけなのだ。

 それに、万が一そうだったとしても私は悪くない。悪いのは車だ。

 私のせいで彼女が――わけじゃない。

 

 実際、私は何も見ていないのだ。

 見殺しになんてしていない。目撃していないのだから。

 何が起きたのかも知らない。知らない。

 

 そうだ。私は関係ない。

 まったく関係ないじゃないか――

 

 

 こうしてあの時の気持ちを鮮明に思い出せるあたり、

 私はまだあの出来事を忘れられていないということになる。

 心のどこかで意識してしまっている。

 全部が気のせいだったのだと思う。そう思いたいだけかもしれないし、

 本当に何もなかったのかもしれない。今となってはもう確かめる術もない。

 そんな出来事に対して、後悔や罪悪感をもつなんて、おかしな話だ。

 2年も前の話だ。いい加減忘れてしまおう。

 

 気のせいだったのだ。全部。

 あの、鈍く生々しい「どん」という音も、

 

 帰宅後、しばらくしてから聞こえてきた、あの救急車のサイレンも――

 

 

―――――――――――――――――――――――――――――

<完>