10年ほど前、
奈良の「大和西大寺」駅の近くに住んでました。
勤務先がJRの「平城山(ならやま)」駅※でしたので。
※この駅名、知らないと読めないでしょ~。(^-^;
「へいじょう」駅って読んでしまいそうですよね。
その「大和西大寺」駅から歩いて10分ほどの所に、
「平城宮跡」がありまして、
ボーっとしたい時など、
よくそこに行って文字通りボーっとしてました。(笑)
(復元された大極殿 Wikipediaより)
今日も広報ジャーナリスト・堀美和子のブログにお越しくださり、
ありがとうございます。あなたに感謝ですっ!
「宮」の「跡」というだけあって、広大な敷地。
一言でいえば“広大な野っ原”です。
見渡す限りなんもないっス。(^-^;
敷地内だけでなく、
周辺の建築物にも厳しい高さ制限があるため、
ほぼほぼズドーンと見晴るかせます。
どれほど遠くまで見えるかというと、
春日山※がのぞめるほど。
※平城宮跡から
電車で二駅先+バスで10分弱の距離にあります。
(奈良県庁から撮影された花山と御蓋山 Wikipediaより)
その他の方角を見ても、
遮るものといえばせいぜい5階建てくらいのビルで、
本当にぐるりと視界が開けるんです。
(奈良が盆地、ということを実感できるのもこの瞬間です。^^;)
ここでボーっとする度、
いつも不思議な気持ちになりました。
「21世紀の私が見てるこの景色って、
奈良時代の都人が見てた景色とほぼ同じなんよね」って。
(平城京遷都に尽力した藤原不比等さんです。
こういう人が生きていた時代ですね。画像はWikipediaより)
足元を見ても、
自分の立ってるすぐ下にも、そのまた下にも、
奈良時代やその遥か以前からの
地層(=人々の歴史)が積もってる、ってことを
足の裏に感じました。(←変な表現ですよね。^^;)
(この土の下・・・を感じたんですよね。)
古(いにしえ)の人と同じ景色を、
古(いにしえ)の人が紡いだ
歴史の上に立って見る。
その感覚は、「逢魔が時」と言われる夕暮れに、
ひときわ強かったのを覚えています。
教科書で歴史を教えられるよりも、
遥かに饒舌で濃い何かを感じた時間。
もしSF小説だったら、
タイムスリップが起こりそうです。(^^;
(気分はデロリアン号?かな。(笑))
知識を詰め込まれるより、
歴史の現場に数分でいいから立ってみる。
それだけで得られるモノやコトって、
途轍もなく大きいんじゃないか?
そういえば人気作家の夢枕獏さんが30代の頃、
カヌーイストの野田知佑さんとユーコン川※をカヌーで下った折、
こんなふうに言われたとか。
※カナダからアメリカのアラスカ州へと流れている川で
こんな川です。
「おれたちが今見ているこの風景は
2千年前と同じなんだぜ」
この経験から夢枕さんは、
世界を見る時間のスケールを変えると、
同じ風景を見ても異なるものが見えてくる、
と気づかれたそうです。
(11/19朝日新聞夕刊より)
「旅や取材に出たときに、
2千年前、5千年前、1万年前の人類が
見ていたものは何だろうと意識して探すようになった」
とのことで、その視点は
「作品の節々に生きている」、と。
歴史が現代へ続いていると実感したり、
昔の人と同じ視点を共有できたりすると、
何かを見たり聞いたりした時に、
判断軸というか、感じ考える軸が少し違うふうに
なるのかもしれませんね。
私が、その人や企業の歩んできた軌跡に
着目するようになった始まりは、
あの平城京跡で経験した
過去から現代への流れなのかもしれません。
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