日伊文化交流会

サークル「日伊文化交流会」は板橋区で生まれ、元東都生協登録サークルとしてイタリア好きの人たちが集まり楽しく活動しています

世界遺産講座に行きフランスのお話を聞いてきました(2018.1.24)@クラブツーリズム旅の文化カレッジ

2019年04月19日 | イタリア旅行・世界遺産
世界遺産講座に行きフランスのお話を聞いてきました(2018.1.24)@クラブツーリズム旅の文化カレッジ



この記事を 2019年4月15日に火災にあった パリのノートルダム大聖堂の修復を願って ここに掲載させていただきます...



フランスには 自然遺産4 文化遺産39 複合遺産1 合計44世界遺産がありますが(2019年4月現在) たくさんあるので 旅行に行く時はテーマを絞って廻るとよいとのこと

フランスの歴史は かのカエサルのガリアにはじまります 最初の文献はかのカエサルの「ガリア戦記」なのですね!!
375年のゲルマン民族大移動で ローマの支配から ゲルマンのフランク族支配へと

そしてカトリックに改宗したクローヴィスによる メロヴィング朝フランク王国 (フランスの語源)の建設
カロリング朝(カールの という意味)の支配 そして ピピン3世の子のカール大帝(カルロマーニョ)は 800年に西ローマ帝国皇帝となります

そのカール大帝(742~814)の死後に 東フランク(のちのドイツ) 西フランク(のちのフランス) そしてイタリアに分裂します 
その西フランクでは ヴァイキングのノルマン人に苦しみながらも パリ伯ユーグ・カペー(987~996)により 800年も続くカペー朝フランス王国が誕生します 彼は初のフランス王というわけ

 * ポン・デュ・ガール(ローマの水道橋) 南フランスにあり まだ歩いて渡れて使える水道橋です 三層アーチは二千年も壊れず 水のあるところに軍事拠点が作られていたことを物語ります

敬虔王ロベール2世
や 肥満王ルイ6世 尊厳王フィリップ2世などが出ますが このフィリップ2世は アンジュ―伯アンリ・プランタジュネ(イギリス王ヘンリー2世)の5男の ジョン欠地王(失策続きでイギリスの領地を失い ジョンという名前は二度とつけられなくなった)の失った領地を奪い返します 

そして端麗王フィリップ4世は 教皇ボニファティウス8世を憤死させてアヴィニョンに教皇庁を移します 有名なアヴィニョン捕囚ですね 

 * アヴィニョン歴史地区 アヴィニョン橋の歌で有名ですね 

そして14代のシャルル4世に跡継ぎがいなくてカペー朝は1328年に断絶 フィリップ6世ヴァロワ朝へと移ります 

ところが 母がフィリップ4世の娘で王位継承権を主張するイギリス王エドワード3世との間で百年戦争が勃発...百年とは長いですが 本当はジョン失地王の失った領土を回復という狙いがあったようです

その百年戦争の最後で 窮地に陥ったシャルル7世の前に現れたのが かのジャンヌ・ダルク!!
彼女は戦いのプロではなくルール通りに動かなかったので臨機応変に勢いに乗って勝てた
イギリスに勝ったシャルル7世は ランス大聖堂で戴冠式を行いました

  ノートルダム大聖堂(ランス):  歴代のフランス王たちの戴冠式が挙行されてきたゴシック様式の大聖堂 ステンドグラスが美しい 

ヴァロワ朝
は 30年続くユグノー戦争が激化して アンリ3世がパリで暗殺されて滅び アンリ4世が即位してブルボン王朝が誕生します 彼はまたカトリックに改宗して個人の信仰の自由を認めて ユグノー戦争を終わらせました

そのアンリのあとのルイ13世が亡くなった時にまだ5才だったルイ14世は 太陽王と呼ばれる程に繁栄しますが 鉱物資源に満ちたアルザス・ロレーヌ地方を三十年戦争の講和条約で得たからでもあり この地方はまた火種ともなったのですね 

ルイ14世は幼い頃 王権強化を懸念した貴族の起こしたフロンドの乱がパリで起きた時のショックからヴェルサイユへと移り そこであの壮大なるヴェルサイユ宮殿を作りますが 財政も圧迫するのですね~それはそうでしょう

 ヴェルサイユ宮殿: 絶対王政の象徴 各国がまねして宮殿を作った 自然をも征服したという庭園まである 鏡の間は圧巻でまさに太陽王の前にひれ伏した

長年にわたるイギリスとの構想でフランスが劣勢となり ナントの勅令(信仰の自由を認める)を廃止すると 国内の裕福なカルヴァン派(ユグノー)が国外に流出 (カルヴィンはは勤労して得た金はよいとして資本主義のもととなった)

ルイ14世の絶対王政は まだ免税特権を有していた聖職者・貴族など特権階級との結びつきの上に成立していましたが その圧政に反発した民衆が 1789年7月14日バスティーユ牢獄を襲撃し フランス革命がおこります (ベルサイユのばらで育った世代です♡)

ルイ16世マリー・アントワネットもギロチンで処刑され 過激な革命家ロベスピエール自身も断頭台の露と消えます

そこにナポレオン1世が登場し 諸国に数々の戦争をしかけて勝ち抜きます 背は低いが戦争上手だったそうで 傭兵ではなく親衛隊を使いました
1814年にとうとうライプツィヒの戦いに敗れて退位し エルバ島に流されます 百日天下で最後はセントヘレナ島に幽閉され 凱旋門を生きて通ることなく 遺体が凱旋門をくぐってアンヴァリッドの墓所に埋葬されました  彼こそがナショナリズムを産んだのですね

 エトワールの凱旋門: ローマのコロッセオに続くって知っていました?

フランスの政治体制は目まぐるしく変わります 共和制 革命を経て帝政 ナポレオン3世第二帝政
このナポレオン3世は ジョルジュ・オスマン大規模なパリ市の改造計画を推進させて 今あるパリの街並みがこの時できたのですね

 パリの街並み: ナポレオンが馬に乗った目の高さで一番美しく見えるように作られたそうです 

ノートルダム大聖堂 パリジャンの誇りである「我らが貴婦人」を訪れないのは ここで戴冠式を行ったナポレオンに失礼とのこと!「微笑みの天使」は必見!!

 モンサンミッシェルは 黒田講師が若い頃見た「ラストコンサート」の映画で見て 当時まだポピュラーではなかったこのモンサンミッシェルのツアーを企画されたそうです 
まだ橋がない頃は引き潮に飲まれることがあるため 遺書を書いてから行けと言われていたそうです!

  モンサンミッシェル

 歴史城塞都市カルカソンヌ カルカソンヌを見ずして死ぬな!と言われたそうです 二重の城壁のライトアップ 籠城をしていたカルカス女王が太った豚を落としてカール大帝を撤退させ勝利の鐘を鳴らしたエピソード 「カルカスが鐘を鳴らしている(Carcas sonne)」が市の名前の由来ですね 

 シャンパーニュの丘陵、メゾンとカーヴ  メゾンは醸造所 カーヴは貯蔵庫
修道院がシャンパンを作っています

 サラン=レ=バン大製塩所から アル=ケ=スナンの王立製塩所までの煎熬塩の生産  ここはフランスの経済を支えました 近くの森から製塩に使う薪を調達できたとのこと 岩塩の層があったのですね

次はいよいよドイツ クラブツーリズムの世界遺産旅行講座も これでラストです!!



* 写真は パリのノートルダム大聖堂 


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