yosete いい小説には、得てしていい解説が伴う。

熊谷達也氏のデビュー作「ウェンカムイの爪」の文庫版に解説を寄せているのは、阿刀田高氏である。

 

新聞であれ雑誌であれ、読み出しが退屈なものをだれが読むものか。読者はそれほどお人好しではない。書き出しがわるいのは記事として論文として決定的によくないのである。

 

と、阿刀田氏は以前に読んだ社会評論家のエッセイを引用し、

 

当時の私は、

―― そんなものかな――

と納得したけれど、この言葉を骨身に沁みてわかったわけではなかった。しみじみ理解したのは、やはり自分が文筆業になってからだったろう。今度はよくわかった。悟ったと言ってもよいだろう。

 

と続けている。

わたしも、以前だったら、阿刀田高氏のように「そんなものかな」と何となく納得しただけで終わったであろう。

だが、今はこの言葉に深くうなずける。

出版される本はあまたあるけれど、読者は段々減少している。そんな中で、自分の本を手にしてくれた貴重な読者の期待を裏切ってはならない。

 

小説も例外ではない。初めの十行、初めの四、五ページ……。一気に読者を引きつけてほしい。魅了してほしい。数ある本の中から、たまたま読者が自分の書いたものを手にし、目を留めてくれたのだ、読んでくれたのだ。この事情を考えれば、

――死んでも、この先を読まさずにおくものか――

そのくらいの意気込みがなくてはなるまい。

 

商業小説においては、この阿刀田氏の言葉の意味の深さを理解できるか、否やというのは、もっとも大事な部分ではないか、と思う。

 

 

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