東京新聞と中日新聞の記者として活躍した金子治司という方が「幕末の日本」(早川書房)という本を著しておられる。

そのあとがきに、次のような文がある。

 

天保の初年、高野長英が塾を開いた麹町甲斐坂を探して歩いた。土地の様相は変わっても、その場所は存在するに違いない。区役所を訪ね、図書館の書架に目を走らせ、土地の古老から話を聞いた。

そうして、とうとう小さな勾配の激しい短い坂を発見した。細い坂道の両側の家の屋根が折り重なるようになっていたが、その合い間に初冬の東京の空があった。私は丸坊主の長英がひょっこり顔を出すような錯覚にとらわれた。そのとき、私は百三十年前の高野長英を身近かな隣人と感じた。この感じで、私は書き続けていこうと、このときはっきり想った。

 

小説なり、随筆なり、研究書なり、物を書くにはターニングポイントとなるできごとがあることが多い。

書き始めたきっかけはあやふやであっても、かき続けていこう、と決意するには何らかの事件や思いが必要となる。

だいたいにおいて、書き始めは楽しい。それが段々と苦しくなってくる。後半ともなると、七転八倒している場合すらある。

そんなとき、やめずに書き進めるには、ターニングポイントで行った決意が役に立つ。

 

歴史学者が点を発掘するならば、その点と点を結ぶ線を足の取材でつなぐのが私の仕事だと思った。

 

金子氏には、上記の決意がある。

 

網淵謙錠氏は「苔(たい」(中公文庫)のあとがきで、次のように書いている。

 

ピメロラを犯したテレウス王はピメロラの舌を切った。言葉を失ったピメロラは燕となった。この<ピメロラの変身した燕>の苦しみにどうしようもないもどかしさと憤りを感じる人々に、私はこの作品集を読んでいただきたいと願っている。

 

書くという行為には作家の何らかの決意が必要ではないか、と思っている。

 

 

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