1~2月にかけてリベリア・シエラレオネ・ギニアを13日間旅行しました。
今回はシエラレオネ観光2日目で、午前に行ったバンス島を紹介します。
昨日と同様に高速船に乗ります。
アバディーン橋からバンス島まで1時間、観光は2時間程度でした。
バンス島は黒人奴隷貿易で栄えた島です。
このバンス島には、世界中で有名な曲”アメージング・グレイス”を作詞した”ジョン・ニュートン”(作曲者は不明)が来たところといわれています。
なぜジョン・ニュートンはこの島に来たのでしょうか?
実はジョンニュートンは奴隷貿易船の船長もしてた奴隷商人でした。
1772年、「アメイジング・グレイス」で、黒人奴隷貿易に関わったことに対する悔恨と、それにも拘らず赦しを与えた神の愛に対する感謝を表しました。
偶然とは思えないくらいの出来事があり、1807年英国国会法で奴隷貿易の廃止が決定され、その年、ニュートンは82歳で死去しました。
ジョン・ニュートンは黒人奴隷貿易で、富を得て、その資金で教区牧師になり、アメージング・グレースを作詞し、黒人奴隷貿易反対運動をして、イギリス議会で奴隷貿易の廃止が決まると、すぐに他界と、映画の主人公のような人生でした。
バンス島は1663年にイギリスによって貿易の中継地点として要塞を築かれ、西アフリカ最大の貿易拠点になっていきました。
その莫大の資産価値から、1702年からフランス、1719年にフランス、1728年にポルトガルなど、多くの国に攻撃され、占領・奪回を繰り返しました。
1750年に王立アフリカ会社(英国)はこの島を民間会社に売り、同年から1800年のバンス島は奴隷貿易の主要積出港として、黒人奴隷は米国やカリブ海の小アンティル諸島の島々に連れて行かれました。
このあたりの黒人は稲作ができるため、アメリカのライス・プランテーション農場主に高値で売られていたようです。
元アメリカ国務長官コリン・パウエルがバンス島訪問した時、「自分はアメリカ人だが、今はただのアメリカ人ではない。この大地で自分のルーツを感じる。自分はアフリカ人でもあるということに誇りすら感じる。」と述べました。
これから観光の紹介です。
アバディーン橋から出航。
多くの船があります。
中央に船があるのですが、これはただの船ではないです。
何か船に鉄塔が並んでいます。何かお分かりでしょうか?
答えは発電船です。
これはトルコの船で船上で発電した電気は送電線でフリータウン市内に送電されています。
カクム島で、テグネ族の漁村があります。
タッソ島です。このロケ川の最大の大きさで、2000人ぐらいが住んでいます。
タッソ島は以前、奴隷貿易の拠点として使われていたことがあり、島が大きすぎたため、脱走する黒人が多く、黒人を管理しやす小さなバンス島が繁栄します。
遠くに何か見えました。何かわかりますでしょうか?
ここはぺペル島で採掘した鉄鉱石を船に積み込みするところです。
1時間ほどでバンス島が見えてきました。
バンス島に上陸します。
この島の説明板です。
島の井戸です。
ここは2階建ての商館だったようです。1Fは倉庫で、2Fは住居だったとのこと。
商館内部です。
修復していました。
ここは大砲があり、ここから砲撃していました。
イギリス王室のマークです。王室が黒人奴隷貿易で経営していた事実は残念です。
ここは管理していた白人(20~50人)の酒飲み場だったようです。
ここはチーフの3階建ての住居。
コットンツリー。
奴隷部屋は男性(200~1000人)、女性(20~150人)、子供とわけていました。
女性部屋と子供部屋が隣にあり、子供が泣くと、母親がすぐに行けれるようにしていました。
男性部屋は200~1000人ぐらい収監されていたとのことです。
男性の白人や黒人は黒人女性と性交渉を子供を産ませ、奴隷を増やしていたとのこと。
父親と娘、母親と息子でも性交渉をさせたとのこと。
巨大なコットンツリー。アメージング・ツリーとも呼ばれているようです。
200年前の貝殻。貝殻で住居の壁を造っていました。
住居とは逆の方に墓地があります。
ほとんどが白人ですが、黒人の墓地もありました。
墓碑を見ると名前は年月が彫られています。
ジョセフ船長、1795年。
岐路。
船員の用で、島の人に荷物渡し。
次回は、タクグマ・チンパンジー・サンクチュアリーを紹介します。
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