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いじわるな人の友達観がわからない

2019年01月06日 | エッセー
 不思議だなぁと最近、思うことがある。

 それは、いじめる人同士が、どうして仲いいのか。
 私は、いじめる人や、イソップ物語のこうもりみたいに、その人のいないところで悪口陰口を言う人などが、仲良くなるということが想像つかない。一方が誰かをいじめているということを認識しているにもかかわらず、アフターファイブでもお付き合いしちゃえるということが本当にわからない。
 せめて、アフターファイブは、意地悪でない人と付き合いたい。
 自分の心の中にも、いやらしい心が住み着いているのは、十分すぎるほどわかっている。それでも、それを口に出さないという覚悟でもって、どうにかこうにか美しいものに向かって生きていかんとしている。人のうわさ話や悪口が蜜の味だということもわからないではない。でも、言ってしまって、後味が悪いこともわかっている。いじめられてきついとき、たまに、話を聞いてもらいたくて愚痴ることがある。聞いてもらえて共感してもらえたら、すっきりするけれど、少し、心が汚染されたような気持ちになる。

 この人はいじめる人だと認識しながら、どうして、そんな信用のおけない人とアフターファイブも付き合えるのかなぁ~。人をいじめるような人とどうして一緒にいたいのかなぁ~。私は、この人と一緒にいると、心が休まるなぁとか心豊かになるなぁというような人といたいから、想像がつかない。



 私を見ると、条件反射でいじめたくなるんだろうなと思しき人が二人、この世にいる。二人は仲よさげに見える。
 一人は、正論という名の武器を巧みに使い、攻撃をしかけてくる。しかも、これでもか、これでもかとすごい剣幕になる。いつ治まるのだろうかと懸念するくらい。当人に言うだけでは気持ちが治まらない時は、誰か彼かに、きっと、私のことを非難しているんだろうな~と言うようなオーラを出しながら、なんかしゃべっている。聞えよがし・・・というのであろうか。結構、尾を引いている感がある。
 仕事のことで、彼女の持論と違うことを私が口にしたとたん、彼女の中のいじめ心の導火線に火が付くよう。
 いじめる人は、無意識に心の奥深いところに存在するいじめ心に点火する回路が出来上がっているんだろうなぁと彼女を見ていて思う。
 大声で、正論を私にぶつけて、私の考えがおかしいということを周りにもピーアールする。

 もう一人は、何かイライラすることがあると、不機嫌になる。ほかの人にも不機嫌だけれど、私に対しては、日頃より、目の上のたん瘤のごとく目障りのようで、こと強い。

 イライラしやすい人なんだろうか。

 私は、このイライラという感覚を体験することが人よりも、どうも、少ないような気がする。
 自分の前の車が法定速度より遅く走っているときくらいかなぁ、イライラという感覚が表出するのは。
 
 イライラしやすい人や急に不機嫌になる人は、おそらく、わけのわかんない心のモヤモヤが根雪のようにくすぶり続けていている人なんじゃないだろうか。幼い頃、まだ、言葉にできない頃に言えなかった『イヤだ』の気持ちの塊。
 ふつう、今、起こっている事象そのものだけで、一日中、イライラが尾を引くということはないんじゃないかなぁと思う。
 
 たぶん、私は、幼い頃、そんなにくすぶる必要のない恵まれた環境にあったのかもしれない。ただし、再生のチャンスの思春期に、すぐシュンとなって暗くなる母親により、『くそばばぁ・別に・・・うざい』という怒の3点セットが言えなくなって、喜怒哀楽の怒の感情が未分化のまま大人になってしまったけれど。そう。思春期の『くそばばぁ・別に・・・うざい』という怒の3点セットは、怒の感情を分化させ、発達させ、喜怒哀楽の感情のバランス感覚を豊かにさせる素敵なツール。
 ごく幼い頃、自分が生き残るために、親にとっていい子(つまり、都合のいい子)を選択した人は、抑えた怒りの感情を背負って、その上に日常の感情をその背負って生きていく。おそらく、抑えた怒の感情がイライラの正体なのではないだろうか。
 一方、私のように、思春期に反抗できなかった人も、怒りの感情を上手に分化できなくて、未分化のまま、嫌なことをきちんと『イヤだ』というに当たり前のことに勇気のいる人生を背負って生きていく。
 イライラタイプの人は、溜まったイライラを発散したくてうずうずしている時は、自分から、点火スイッチを押しに行く。そのためには、なんでもいい、大義名分が必要だ。調度いいターゲットのちょっとした言動や振る舞いを非難する口実として、点火のきっかけをねらっているんじゃないかと思う。無意識に。

 きっと、くすぶっていた怒りの感情を発散した瞬間の快感ってたまらないんだと思う。
 病みつきになっているんじゃないだろうか。
 病みつき・・・・か。
 いじめとか批判で発散する人って、ひょっとして、ギャンブル依存症・アルコール依存症・覚せい剤・摂食障害・盗撮・万引きなどの依存症と同じように、その快感に病みつきになってしまっている人かもしれない。
 だとすると、いじめて発散する人は、そうそう変われない。パワハラとかも、きっとそう。
 アルコール依存症の人が断酒を続けるって至難の業だもの。毎日、毎日、ビールを飲みたいという衝動が起こる。けれど、それを、毎日毎日、抑えて、今日飲まないと選択している人生だという。飲むも地獄、飲まないも地獄なのだと聞かされて、生きることのしんどさを痛感した。だいたい、多くのアルコール依存症の人は、自分はアルコール依存症ではないと否認する。脳の回路がどうなっているのか。でも、否認しないと、毎日、浴びるほど飲めない。人には良心というものがあるから。否認しないと罪悪感にさいなまされて苦しい。
 もしかしたら、いじめる人も、自分はいじめてなんかいない。この人が、気が利かないから・・などと本気で思っているんじゃないだろうか。否認という点では、依存症を克服しようなんてちっとも思っていない人達と同じような脳の回路を形成しているのかもしれない。

 しかも、アルコール依存症の人よりも、質が悪い気がする。
 アルコール依存症の人は、周りの人も依存症というレッテルを貼ることが容易であるが、今のことろ、いじめとかパワハラなどは、依存症という診断名は医学的につかないから。アルコールとか覚せい剤とかギャンブルは、溺れるまで行ってしまうので、身内を不幸にしてしまうけれど、いじめる人って、溺れるレベルまでにはならない。どうして、溺れないのかなぁ。いじめやパワハラが溺れるところまで行ってしまうと虐待ととなるのだろうか。
 
 ながながと書いてしまった。
 でも、結局のところ、わからない。
 大人になって、お互い、誰かをいじめている人だとわかっていながら、アフターファイブでも仲良くできちゃえるという、その不思議。

 八つ当たりして快感を感じる回路を形成してしまった人は、セットで、否認という脳の回路も形成していて、自分の心を客観的にみる力が無意識に操作されて、好意を持っている友人が誰かをいじめている姿をみても、認めないよう鈍麻してしまって、良心が雲で覆われて、ありのままの自分が見えなくなってしまっているのだろうか。

 


 
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